ハンサム・ザ・キャット ~愛の因数分解~ 〈19.月の石爆発事件 その1〉

 麻也とハンサムは矢城刑事と相談して、ハンサムが被害届を出す事にした。そうすれば、警察が動く事によって、襲う側も少しは用心して、襲うのを躊躇うかもしれない、と言うのが理由だった。

 ハンサムの身元が不明である事や、設楽の立場や、諸々の事情を考えて、拉致に関する事は届けず、結局、飲み物の異物混入事件として捜査される事になった。

「どうやら、トイレに立った時に、お茶のペットボトルに薬を入れられたようだな。指紋は月影の物だけだったらしい。当時、あの場所には21人の人が居たようだが、その内の少なくとも一人が、係わっているという事になるな。誰かが入って来て入れていった、とも考えられているのだが、設楽という人が、その間には誰も学校に入って行かなかった、と言っていたんだね?」

 矢城刑事が麻也に聞いた。

 矢城刑事は、管轄が違うので事件の捜査には関わっていないが、情報は教えてもらえる事になっているらしい。非番の日曜日、麻也の家にやって来て、ハンサム達にいろいろと教えてくれていた。

「はい。ずっと見張っていたから間違いないそうです」

「設楽という人は一体どういう人なんだね?」

「よくは知りません。ハンサムと同じ職場にいる人なんですが、尾之多君からハンサムのボディガードを頼まれていた、と、言っていました」

 ハンサムは、睡眠薬を飲まされて、ふらふらと道端で眠ってしまっていた所を、ハンサムの同僚である設楽が通りがかりに見つけて、家に連れてきてくれた事になっている。そのため、設楽は警察から簡単な聴取しかされていないのだ。

「尾之多博行。尾之多家の坊ちゃんだな」

「尾之多君は、今、アメリカに行っているんですが、去年の暮れに、向こうで、〔月の石〕に係わる事件に巻き込まれたんだそうです。その〔月の石〕が、前の事件とも関係あるかもしれないから、注意した方がいいって、連絡をくれていたんです。でも、ボディガードまで頼んでくれていたとは知りませんでした

 麻也は、自分が〔月の石〕で願い事を叶えてもらった事は、絶対に誰にも言わないと心に決めていた。言えば、ハンサムの事も言わなければならなくなる。人間として生きようとしているハンサムが、マスコミや科学の実験の犠牲になるのだけは、絶対に見たくない。ハンサムにも秘密を守るよう頼んでいた。

 ハンサムも、人間として生きていくためには、秘密は守った方がいいと理解していた。

 ハンサムが拉致された夜、〔月の石〕を持ってきた異世界の人に出会った事や、あの不思議な女性に会った事、話された言葉は、今はまだ、麻也だけの心にしまい込んである。

「ふぅむ。〔月の石〕か。何やらアルファベットの集団が、他にも幾つか係わっていそうな、警察の手の届かん事件になりそうな、嫌な予感がするな」

 矢城刑事はちょっと困ったような顔つきで、人差し指でこりこりとこめかみを掻いた。

「アルファベットの集団と言うと、CIAとかですの?」

 丁度その時、キッチンから紅茶とケーキを持ってきた母が聞く。

「あ、いや、あの時はいろいろとお騒がせしましたな。いや、今度の事件は関係ないと思いますよ。単なる嫌がらせではないかと思っております」

 麻也の頼みで、母にも拉致された事は伏せてあった。母の性格を考えて、巻き込まれないようにとの配慮だった。

「嫌がらせで睡眠薬を使うなんて。危ないわ。下手したら凍死してしまうのに。きつくお説教してやってくださいね」

「はい、分かりました。犯人が見つかったら、きつくお説教するよう伝えておきます」

 きっぱりと言う矢城刑事の言葉を聞いて、母は満足したようだった。

 矢城刑事が紅茶をすすっていると、誰かが訪ねてきた。

「噂をすれば影、ですわね」

 母が客を連れてくると、皆が驚いた。

「尾之多君! アメリカに行っているんじゃなかったの?」

「やあ、元気かい? ちょっと野暮用で帰ってきた所だよ」

 大きな土産袋を抱えた博行は、前に会った時よりも大人の女性に成長している麻也を、眩しそうに見つめて、挨拶をした。そこへ、矢城が割って入った。

「ほう、どんな野暮用か聞かせてもらえると嬉しいね」

「これは、矢城刑事さん。刑事さんがここにいるとは思わなかったな。悪いけど、あなたの分のお土産は買ってきませんでしたよ」

 それほど驚いている様子も見せずに、矢城を見て言う。

「構わんよ。お前さん、向こうでおかしな事件に巻き込まれたんだそうだな?」

「え? ああ、あの事ね。単なる事情聴取だけですよ。どうってことありません」

「お前さんのどうってことない、は、あるという風にも聞こえるな」

「はははは。考えすぎると、早く禿げますよ。麻也、こっちでもおかしな事件があったんだって? 無事で良かった」

 返事を適当にはぐらかして、麻也の方に向き直る。

「事件に遭ったのは僕の方だよ」 と、横からハンサムが言う。

「お前、無事で良かったな。今度からもっと気をつけろよ。麻也を巻き込まないようにする為にもな」

「うん。分かってる」

 しおしおになった様子のハンサム。

 母が博行の分の紅茶とケーキを持ってきた。

「刑事さん。さっき、〔月の石〕とか、おっしゃってませんでした?」

「ええ、言いましたが。それが何か?」

「今さっき、ダイニングキッチンのテレビをつけたんですけど、その話が出ているようですよ」

「えっ!?」

 皆の間に、さっと、緊張が走った。応接室のテレビをつける。ニュースの番組に変える。画面一杯に、もうもうと黒煙をあげる大きな建物の姿が映し出された。

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ハンサム・ザ・キャット~愛の因数分解~             18.陽の使者 その2

「行ってきたわ。本当にこれで良かったの?」

 都市の外れにある森の中。短髪のエキゾチックな雰囲気を持つ女性が、森の中心部にある楠木に話しかける。辺りに人影は見えない。

「ご苦労だった。誰かに後を付けられなかったか?」

「付けようとした奴がいたけど、巻いてやったから大丈夫よ」

「そうか。では、その石の使い方を教えよう」

 説明をひととおり聞き終わると、

「使い方は分かったわ。あの・・・、ところで、桐本の事なんだけど、彼は今、無事でいるのかしら?」

「お前を人間に変えた若者の事だな。大丈夫だ。彼は望みが叶った事をまだ知らずにいるのであろう?」

「ええ。目が覚める前に抜け出してきたから、願い事が本当に叶ったかどうか、まだ知らない筈だわ」

 女性は思い返していた。あの日、桐本の願いによって人間に変わった時の事を。元々、桐本に近づいたのも、彼を〔月の石〕の所に導いたのも、その為だったのだ。だが、変身した後まで彼の所にいるつもりは、最初からなかった。悪く言えば、彼を利用して人間に変身する願い事を叶わせたのだ。しかし、彼の無事は気になっていた。

「それならば、そこら辺をうろついている犬どもに見つかった所で、たいした情報源にはならぬ。せいぜい、石の粉を取られてしまうくらいのものだ。危険な目に遭う事はないだろう」

「そう。良かった」

 変身して、桐本の所を飛び出した彼女は、森の中で声の持ち主に出会った。声の持ち主は、彼女の正体を知っていた。それだけではなく、彼女が人間に変身しようとした事まで知っていた。彼女は、声の持ち主に説得され、運命に導かれるまま、声の持ち主の言葉に従い、行動する事になったのだった。

「では、これを渡しておこう。これから必要な物がひとそろえ入っている。くれぐれも、先ほどの説明を忘れるでないぞ。行動は予定通りに運ぶのだ。良いな?」

 洞の中から大きなバッグを持った手が差し伸べられ、バッグが地面に置かれた。女性はそのバッグを手に取ると、中身を確認した。

「本当に、向こう側で彼と出会えるのですね」

「そうだ。向こう側で結ばれる運命なのだ。ジュムニよ、必ず使命を果たすが良い」

「分かりました。行きます」

 女性はその場を立ち去った。立ち去った後の洞から、ゆらりと人影が現れた。長い白髪と銅色の杖。杖の頭部には鈍く七色に光る奇妙な宝石が煌いていた。

 白いマント姿の仙人のような雰囲気の老人は、ゆっくりと、都市の方角へと歩を進める。

 老人は通りを進むと、とある建物の前で立ち止まった。中に入り、エレベーターで7階へと登る。その階のCSS商事と書いてあるドアをノックすると、中から、秘書をしている神那崎樹菜がドアを開けて出迎えた。

「お待ち申しておりました。どうぞ奥へ」

「うむ」

 樹菜が控え室で机の引き出しの中の隠しボタンを押すと、通常の応接室の書棚が両側に開いて、奥の部屋へと道が出来る。道の突き当たりの部屋の中で、何人かの男達が、丸い机の周りに輪になって立っていた。一つだけ空いている席に座るよう、老人に勧められる。

 老人が着席すると皆が席に着き、待っていた男達のうちの一人が話し出した。

「ここにいる者達に、もう一度あの話をお話願えませんか?」

「うむ。〔月の石〕は、我々が〔月の使者〕と呼んでいる異世界の者達が、この世界に持ち込んだ物体である。〔月の石〕は、何らかの方法で異世界と繋がっている、高エネルギー体であると推測されるが、詳しいことはまだ分かっていない。〔月の石〕は使い道を誤れば、この世界のバランスを崩すほどの危険な力を持っている。現在、この世界に6個ほど存在すると思われる。その中の1個がアメリカに、もう1個がユーラシアにある国の手に渡っていると思われる。お主等が見つけた1個を含めて、3個の行方は不明である。残りの1個は我々の手中にある」

「質問をしてもよろしいですか?」

「うむ」

「あなたは一体何者なのですか?」

「お主等と同じように平和を愛する集団の長老の一人と言っておこう。〔月の石〕を持ち込んだ者達を〔月の使者〕と呼ぶならば、我々を〔陽の使者〕と呼ぶがよい。我々は共に手を携えるために、お主等と接触する事にしたのだ」

「〔月の使者〕という者達が異世界から来たと言われましたが、どうやってその事を知ったのですか?」

「彼奴等の仲間が異世界から侵入しようとしている所にたまたま出くわしたのだ。彼奴等の仲間の一人を捕まえて、石の事について詳しく聞こうとしたが、結局、途中で逃げられてしまい、僅かな情報しか手に入らなかった」

「異世界からどうやって侵入しようとしていたのですか?」

「うむ。我々にもよくは分からん。何も無い空間から、いわゆるテレポートでもしてきたように現れたのだ」

「超能力者ではなかったのですか?」

「その可能性は捨てられない。何も無い空間から石を出す器械を取り出した所を見ると、異空間を操る術を持っていると思われる」

「〔月の使者〕達は何故、〔月の石〕を持ち込んだのでしょう?」

「その真の目的は我々にも分からない。が、〔月の石〕の性質を考えれば、この世界を混沌に陥れ支配するためなのか、それとも自ら消滅させるのが目的ではないかと想像される」

 男達の間にかすかなどよめきが起こる。

「しかし、我々人類はそれを阻止できる理性と行動力を持っている筈だ。お主等が見失った〔月の石〕の行方はどうなったのだ?」

「それが、全力を挙げて捜索中なのですが、なにしろ、各国の調査員が入り乱れて必死になっているので、なかなか思うようには捜索できていません。あなた方のほうはどうなのですか?」

「現在、不明のうちの2個を追跡中だ。近いうちに手に入る所まできている」

「それで、あなた方はそれをどう使うつもりなのですか?」

「不条理な異世界からの干渉から、あるいは超能力者どもの暴挙から、この世界を守るために使うのが、最上と考えている。今は手に入れる事が優先されている」

「是非とも手を取り合って、私達の世界を守る為に使いましょう」

「うむ。手に入れた暁には連絡しよう。お主等の方も手に入れ次第、連絡を頼む」

 男達の代表が老人と握手をし、老人は帰っていった。

「ただいま」

「おかえりなさい。向こうはどうだった?」

 夜も更け、辺りが寝静まった頃、博行が樹菜の家を訪ねてきた。

「研究室にこもりきりで、まだ自由の女神も見ていないよ。紗矢は?」

「元気よ。もうぐっすり寝ているわ。ディックは?」

「海の向こう側だよ。近いうちにもう一つお目見えするらしい」

「まあ、どの一つなのかしら。この間、また〔陽〕が差したわ」

「どんな具合?」

「協力してこの世界を守るために使いましょうって」

「ふーん。すごいね。どこかにありそうな映画みたいだ」

「それで、研究は完成しそう?」

「プラモデルのように簡単にはいかないな。要素が一つ足りないし。でも、まがい物くらいは出来るかもしれない」

「そう。頑張ってね」

「これ、お土産。紗矢にも渡しといてくれる? じゃ、今夜はもう遅いから、おやすみなさい」

「おやすみなさい」

 博行の乗った車の後姿が消えていくのを見送ると、樹菜は眠っている紗矢の所に行った。枕元にお土産を置くと、紗矢の寝顔を見つめて微笑んだ。

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ハンサム・ザ・キャット~愛の因数分解~             17.陽の使者 その1

 通りから外れた道の片側に止めてある自動車の中で、仮眠している設楽怜侍の耳元のイアホンから、突然大きな厳しい声が響いて、設楽は目を覚ました。

「〔猫〕が〔烏〕にさらわれた! 追尾しろ!」

 慌てて起き上がった設楽が、車の中に設置されている探知機をチェックすると、緑色の光点が速いスピードで移動している。車のエンジンをかけ、後を追うように走らせる。走りながらハンズフリーのマイクに話しかける。

「手は幾つ来る?」

「二つ。一つは〔烏〕の前方から回り込む。もう一つは5キロ先で併走する。港に追い込む」

「了解」

 設楽に連絡をした人物は、さらに別の場所に電話をする。

「〔網〕より〔巣〕へ。そちらの様子はどうだ?」

「〔紋章〕に連絡をしている様子だ。他に異常は無い」

「引き続き、業務を頼む」

「了解」

「〔鈴1〕より〔網〕へ。〔烏〕がもう一羽現れた」

「同じ種類か?」

「そのようだ。併走車が阻止されている。応援頼む」

「了解。〔網〕より〔岩〕へ。手が足りない。あと二つばかり回せるか?」

「何とかしよう。今、どこだ?」

「場所は、港の西北西を南に移動中。二羽の〔烏〕を追尾中。右のテールランプが目印だ」

「了解。一羽の阻止は任せておけ。橋の所でブロックする」

「了解。〔網〕より〔鳩〕へ。〔烏〕を港に追い込む。〔猫〕の奪還を頼む」

「こちらは〔鳩〕、了解」

 人知れず、深夜の道路上でカーチェイスが繰り広げられていた。道路の所々に設置された交通監視カメラを気にしながら、さり気なく行く先を邪魔しようとする。目立ちすぎるカーチェイスが後々面倒になるのは、追う方も追われる方も同じだ。

「〔鈴1〕より〔網〕へ。三羽目の〔烏〕が現れた」

「了解。〔鳩〕を三羽用意した。〔鈴2〕が復帰。じき合流する」

「了解」

「〔巣〕より〔網〕へ。〔飼い主〕が動いた」

「ガード頼む」

「〔巣〕より〔網〕へ。〔飼い主〕が女性と接触。正体は不明。危険性は無いように見える」

「女性の正体を探れ」

 やや離れた屋根の上に、暗闇でも見える望遠鏡で、麻也の様子を見張っている男がいる。もうひとり、麻也からかなり離れて物陰で気配を隠すように後を追ってきている男がいた。その男は、屋根の上の男から連絡を受けて、女性の方の後を付けて行く。屋根の上の男はそのまま麻也の様子を窺っていた。

「〔巣〕より〔網〕へ。〔飼い主〕が正体不明の男性と接触。知り合いのようだ。こちらも危険性はなさそうに見える」

「会話の傍受は? 正体を探れ」

「遠すぎる。近寄ってみる」

 静かに気づかれないよう屋根の上を這っていく。しかし、会話を聞き取れるほどの距離に近づくことは出来ない。会話が終わって、男が立ち去ろうとすると、〔網〕に指示を仰いで、その男の行き先を見極めようとした。しかし、公園の所で見失ってしまった。

 まさか! こんな視野の広い所で、巻かれたのか? ありえない。一体何処へ行ってしまったんだ。何時やってきたかも分からなかった。あいつは何者なんだ。

 と、その時、女性の後を追って行った者から連絡が入る。

「なに? そっちも見失ったのか? 気づかれたのか? 我々をまくなんて、一体あいつらは何者なんだ」

 屋根の上の男は、状況に納得できないまま、〔網〕に一部始終を報告すると、麻也の後を追いつつ、幸坂家から少し離れた所にあるマンションの、高みの一室に戻った。望遠鏡を覗き込み、幸坂家と辺りを見張る。

「〔鈴1〕へ。奪還に成功した。受け渡しを頼む」

 設楽はハンサムの身柄を受け取ると、どう説明するかの指示を受けた後、車で幸坂家に向かい、ハンサムを受け渡した。

 翌朝目覚めたハンサムは、麻也の腕がしっかりと自分の首に巻きついているのでびっくりした。見ると、麻也の頬には涙の跡が付いている。

「麻也! 一体、どうしたの?」

「ハンサム! 大丈夫なの?」

 ハンサムに揺すぶられて目覚めた麻也が、心配そうにハンサムの顔を覗き込み、お互いに顔を覗き込むような感じになる。

「うん。僕は別になんともないけど・・、麻也、泣いていたの? 何があったの?」

 指で麻也の頬の涙の跡を拭くように撫でる。撫でるハンサムの手の上に自分の手を重ねて、目を潤ませる麻也。ハンサムは重ねられた麻也の手を握ろうとして、自分の手首に、ロープで縛られていたかのように、赤く擦れた跡が付いているのに気がついた。

「あれ? これ、どうしたんだろう?」

「昨日の事、覚えていないの?」

「昨日? あっ! 麻也! 誰かに後を付けられたって。あれから何かあったの?」

「ううん。何かあったのはあなたの方よ」

「え? あ、そう言えば、昨日、学校を出て、麻也に電話をしなくちゃと思っていて、急にすごく眠くなってきて、それから・・・僕、どうやって学校から帰ったんだろう?」

 麻也は昨夜ハンサムの身に起こった出来事を話した。

「ごめんなさい。僕、麻也に心配かけてたんだね」

「ううん。わたしの方こそごめんなさい。辛い目にばかりあわせて。わたしが月の石に願い事を叶えてもらおうとしなければ・・」

「麻也! 僕は、人間になった事、人間でいられる事、少しも嫌だって思っていないよ。ううん。人間になれて良かったって思ってる。だって、人間になれたからこそ、大好きな麻也を抱きしめる事が出来るんだもの。麻也は僕が猫に戻った方がいいって思うの?」

「いいえ。いいえ」

 首を振りながら、それでも涙が止まらない麻也の頬を、ハンサムは優しく撫でて、涙を拭った。

「僕、何があっても、ずっと人間のまま、麻也の側にいたい。だから、もうそんな風に考えないで。泣かないで。麻也は僕にいい事をしてくれたんだから」

「ハンサム」 

 ハンサムの胸に顔を埋める麻也の肩が、小刻みに震えるのを、優しく包み込むように抱きしめるハンサムだった。

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ハンサム・ザ・キャット~愛の因数分解~              16.月の使者 その2

 紳士は真っ直ぐに〔ガチャガチャ〕の器械の所に行くと、器械をマントの中に隠した。器械はマントの中に隠されると、マントに吸い込まれたように、形を失っていった。紳士は麻也に気がつくと、紳士の方から麻也に話しかけてきた。

「これは、これは。いつぞやのお嬢さんですね」

「わたしを覚えておられるのですか?」

「はい。願い事は叶いましたかな?」

「あの、あなたは一体何者なのですか? 何処から来たのですか?」

「わたしはユール、探求者です。遥か彼方の地、ヴォルーラから来ました」

「ヴォルーラは月に関係のある場所なのですか? 〔月の石〕はどうやって願い事を叶えるのでしょう?」

「いいえ、月には関係の無い場所ですよ。各地には各地の状況に合わせて形を変える事になっています。〔月の石〕という形を使うのが、この地では適当と判断されたのです。願い事を叶える方法には、ミュウ係数と、デュール分子学的変数による位置変換法の応用技術が、主に使われています。変換による空間の歪みの許容範囲によって、叶う願い事の範囲も限られるのですが、この世界の物質の変換に係わる願い事であれば、大抵の願い事が叶うようになっています」

「どうしてこんな事をしているのですか?」

「それは、今はお教えできません。もし、貴女に月の幸運が微笑みかけるようでしたら、いつか、お教え出来る時が来るかもしれません」

「わたし、猫を人間に変える願い事を叶えてもらったのですが、その変身した人を好きになってしまったんです。でも、その人と一緒になると、この世界が壊れる、と言った人がいました。わたしの願い事は叶えてもらってはいけない事だったのでしょうか?」

「叶ってはいけない願い事は、叶わない事になっていますよ。叶ったのなら問題はありません。貴女の心のままに進みなさい。月の幸運に出会えるかもしれませんよ」

「月の幸運とは、どういう事なのですか?」

 紳士は、白い手袋をはめた右手の人差し指を口元にあて、しばらく考えた後で、ゆっくりと口を開いた。

「この世界を離れて、ヴォルーラに来る勇気はお持ちですか?」

「この世界を離れて・・・?」

「そうです。はるか時空を超えた世界ヴォルーラへと。戻れる保証はありませんが、総ての謎の訳を知りたいのがお望みならば、お連れしましょう」

「いいえ。わたしはこの世界で、好きな人と穏やかに暮らしたい。それがわたしの望みです」

「そうですか。今が最後のチャンスになると思いますが、よろしいのですね?」

「最後のチャンス、と言いますと、もしかして、もう月の石を持って来ないという事ですか?」

「お察しの通りです。今回のわたしの役目は終わりました。後はジュムルが発動する様子を観察するだけです」

「ジュムルが発動する? 願い事によって地球が壊れたりしませんよね?」

「それは、発動のあり方によって決まる事です」

「では、壊れる可能性があるという事なのですか?」

「貴女の属する世界自体がその可能性を内包する世界です。人々の願いによって世界が動かされるのなら、可能性自体もまた、流動するものではありませんか?」

「おっしゃるとおりです。でも、〔月の石〕のような存在は、この世界ではイレギュラーなのではありませんか? そのような物を持ち込むべきではなかったのではありませんか?」

「それは、わたしが決めた事ではありません。わたしは自分の使命を全うしただけです。でも、イレギュラーがレギュラーを補完するのが、この世界の成り立ちなのかもしれませんよ。それを見届けるのもわたしの運命ですが。そろそろ行かねばなりません。通路が閉じてしまうと帰れなくなってしまうので」

「いろいろと教えていただいて有り難うございました」

「では、貴女の望みに幸運を」

 うやうやしく礼をすると、紳士は公園の方角に歩み去って行った。

 家に戻った麻也が、眠ることも出来ず、連絡を待っていると、夜更けの家を訪う者があった。用心しながら玄関を開けると、設楽が立っていた。

「月影君をお連れしました」

「えっ? ハンサムを?」

「はい。車の中で眠っています」

「どういう事なんですか?」

「どうやら睡眠薬を飲まされたようです。学校から出た所で、ふらついている所を拉致しようと企んだ者がいたのですが、奪還しましたから大丈夫です」

「車の中ですやすやと安らかな寝顔で眠っているハンサムを、自分の目で確かめると、麻也の体から急激に力が抜けていくようだった。

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ハンサム・ザ・キャット~愛の因数分解~             15.月の使者 その1

 幸坂麻也は学校からの帰り道、誰かに後を付けられている事に気がついた。鞄から痴漢除けスプレーをそうっと取り出して、いつでも使えるようにすると、足を速めた。幸い、追いつかれる前に家にたどり着いた。

「ハンサム! そっちの方はどんな具合?」

 たどり着くとすぐに電話する。

「今さっき、学校に着いたところだよ。今のところ何もないけど、帰る時にまた電話するよ」

 そう言えば、最近、近所の犬がよく吠えている。家の周りをうろつく者がいるのかもしれない。不安なままハンサムの帰りを待つ麻也に、蓮河から電話が掛かってきた。

「麻也さん。何かあったのですか?」

 不安そうな麻也の声の響きに、蓮河が聞く。

「あ、いいえ。蓮河さんの方こそ、何もありませんか?」

「それが、実は、今日、妙な女性の患者さんに出会いましてね。先生は〔月の石〕を知っていますか、と、聞くんですよ」

「それで?」

「知らないと答えると、幸坂麻也さんは知っていますよね、と、言うものですから、ええ、知っていますよ、と、答えたんです。貴女はどうして麻也さんの事を知っているのですか、と、聞いたら、それには答えないで、彼女とすぐに結婚しないと、大きな災厄が地球に降りかかる、と、言うのです。あ、これ、言っておきますが、決して僕自身の売込みではありませんよ」

「はい」

「それで、占いでもされるのですか、と、聞いたんです。そしたら、占いではなく、貴方の運命は世界の運命に係わっている、さらってでもいいから早く結婚しなさい、と、言うのです。精神的な問題は僕の専門外ですが、差し迫った危険性はないと判断しましたので、笑って済ませて、怪我の治療だけして帰したのですが。その後が問題なんです」

 一呼吸置く蓮河の声に緊張の響きが増す。

「どうやらその女性は、他人の保険証を使って治療を受けた事が、その後で発覚したんです。〔月の石〕と、僕と麻也さんの事を知っている、正体不明の女性。これは是非お知らせしておかなければと思って」

「どんな感じの人でした?」

「ちょっと不思議な、エキゾチックな感じのする若い女性で、目が大きくて、髪は短めで、色白で背が高くて、すらっとしたモデルでもしているような感じの人です。それが、人間離れしているというか、日本語を話すのに、まるで外国の人のようでした。誰か心当たりがありますか?」

「いいえ、全くありません。お知らせいただいて有り難うございます。あの、実はわたし、今日、学校からの帰り道で誰かに後を付けられたようなんです。蓮河さんも気をつけて下さい」

「えっ? 大丈夫なんですか?」

「はい。何も起こりませんでしたから」

「そうですか。麻也さん、くれぐれも気をつけて下さいね」

「はい。蓮河さんも」

 その後、麻也は、ハンサムが学校から出た頃を見計らって、麻也の方から電話をした。しかし、応答がない。何度電話してみても、圏外か電源を入れていないとのメッセージが聞こえるだけだ。学校に電話をかけると、もう学校を出た筈だという。

 胸の鼓動が辺りに響いているように大きく感じられる。目眩がしてきて目を閉じると、赤い闇に包まれて恐怖に捕まりそうになり、救いの光を求めるように目を開ける。これ以上は一人では解決できない。不安が頂点に達した麻也は矢城刑事に電話をした。

「月影が?」

「はい。実は、少し前に、拉致されそうになった事がありました」

「まだ、そっちの警察には連絡していないんだね?」

「はい」

「そうか。まだ拉致されたとは限らんと思うが。心配するなと言っても無駄だろうけど、とにかく、わたしの方で調べてみるから、少し待ってくれるかい? 何か分かったらすぐに連絡するからね」

「はい。よろしくお願いします」

 受話器を置いたままの手の上にもう一方の手を重ねて、神に祈るように、よろしくお願いしますの声を心の中で復唱した。

 連絡の来ない不安な時間が麻也の上を通り過ぎる。窓から外を窺うと、風の吹きすぎる家の前の通りが、月の光に照らされて白く光っているばかり。

 夜は更けて、家々は冷たい月の影に沈んで静まり返っていた。ふと、夜空を仰ぐと、くしくも満月が怪しいばかりに光を投げかけている。

 そうだわ! あの人! あの人に出会えれば、〔月の石〕の秘密が分かるかもしれない。そうすれば、万が一、ハンサムが拉致されていても、秘密と引き換えに帰してもらえるかもしれない。

 或いは、〔ガチャガチャ〕があれば、〔月の石〕でハンサムを帰してもらう願いを叶えてもらえるかもしれない。ハンサムにあげた〔月の石〕は、ハンサムが、誰にも見つからないようどこかに隠しておいた、と、言っていた。

 麻也は、家で待っていた方がいいと言う母を振り切って、駅までの道を探してみるからと、夜深い街へと家を飛び出した。家の周りに人影はなかった。それでも用心しながら歩を進める。

 路地裏に来ると、例の階段の所を見る。前に見たのと同じ〔ガチャガチャ〕の器械がある。今夜は時間が遅い。あの人はとっくに行ってしまった後なのだろう。器械を見ると、中に僅かに残っているカプセルが青く怪しく光っている。

 持ってきたありったけの五百円玉を入れる。五百円玉が尽きる前に、カプセルの方が尽きてしまった。〔月の石〕は手に入らなかった。

 がっかりして、立ち尽くす麻也。ふと、人の気配に気がついた。いつでも逃げられるよう、防戦できるよう構えて、気配のした方を向くと、背の高いすらりとした短髪の女性が、建物の影から現れ、麻也の前までゆっくりと歩いてやって来た。

「〔月の石〕は出なかったでしょう? 一度に一個しか入っていないらしいの。私が先に手に入れたから、もう無いはずよ。残念だったわね」

 女性はエキゾチックな微笑を浮かべながら、麻也に話しかけた。右手を掲げて手のひらの上にあるカプセルを見せる。

「あなたは誰なの?」

 会った事もないのに、どこかで会ったような気のする不思議な感覚に襲われて、麻也が聞く。

「私の事はどうでもいいわ。麻也さん。貴女は蓮河さんと結婚しなければいけないわ。それで世の中がうまく納まるのだから。と言うよりも、存続するという事らしいけど。難しいことは分からないけど、貴女が月影ハンサムと一緒になると、この世界が壊れるのよ」

「そ、そんな事、どうやって信じろというの? どうしてわたしたちの事を知っているの?」

「ちょっと事情が複雑なの。私自身もよくわからない事だらけで。でも、覚えておいてね。貴女の相手はハンサムではなく蓮河さんよ」

 それだけ言うと、女性は踵を翻して、足早に去って行った。

 呆然と夜の中に取り残された麻也。しばらくして、重い足取りで帰ろうとした時だった。ゆらりと、塀の中から、あのシルクハットの紳士が、初めて出会った時のように出現したのだった。

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