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2007年11月

ハンサム・ザ・キャット~捨て猫物語~ 〈19.麗しのフランソワ〉

 幸坂家の朝の食事風景が6人と一匹になった。ハンサムがフランソワを側から離さず、細やかに面倒を見ていたからだ。

 祐希は観察対象が増えて喜んでいるふうだった。

 兄は麻也とハンサムが猫好き仲間だと得心したようだったが、父と母と同様、麻也よりも猫のほうにご機嫌伺いをするハンサムに不審な目を向けていた。特に文句は出なかったが。

 麻也が勉強している間、ハンサムとフランソワは連れ添って外に散歩に行くようになった。それでも、帰ってくると相変わらず、ハンサムは麻也の家事を手伝ってくれた。お喋りしながらふたりで食事の準備をしたりするのを、近くに寝そべったフランソワが見ていた。

 正月が近づいていたが、受験生がふたりもいるので、大掃除は適当に省いた幸坂家。正月の準備だけは、母と麻也でした。

 そんなある日、ハンサムは手に引っ掻き傷を作って帰ってきた。

「どうしたの? 他の猫と喧嘩でもしたの?」

「あいつらがいけないんだ。フランソワを誘惑しようとするから」

「もてるのね、フランソワ」

「追い払ってやったけど、もう二度と近づかせないよ」

 フランソワはちょっと得意げにすましていた。

 と、今度はハンサムが顔に引っ掻き傷を作って帰ってきた。

「今度の相手は手強そうね」

 手当てをしながら麻也が言うと、ハンサムが口ごもって、

「ううん。これはフランソワが、・・。」

「えっ? フランソワと喧嘩したの?」

 見ると、フランソワが怒りを含んだ目つきで麻也の方を見ている。麻也はドキッとした。明らかに敵意を持っている雰囲気だ。もしかして、原因はわたしの事? と、聞く勇気が出ない。

 夕食の時間になった。いつもはおとなしく優雅に食事をするフランソワなのに、食卓の上に乗って、あちこちの物の上に飛び乗ったり、人間の食べ物をかじったり、ハチャメチャして、ハンサムと麻也が一生懸命フォロウしたものの、みんなの怒りを買った。

「麻也! 今度から猫は別に食事にしてね」

 麻也が母から怒られるのを聞いて、フランソワはちょっと満足したように食堂を飛び出した。ハンサムが後を追いかける。

「ごめんね、麻也」

「ハンサムが謝る事はないのよ。わたし、フランソワに嫌われたのかな?」

「僕が悪いんだ。月の石の事をフランソワに話したから」

 麻也の心にグサッと月の石のかけらが突き刺さった。自分の恋人を人間に変身させてしまった張本人なのだ。フランソワが怒るのも無理はない。

「ごめんなさい。フランソワ」

 麻也がフランソワに謝ろうとすると、いきなりフランソワが麻也に飛び掛っていった。

「だめだよ! フランソワ!」

 ハンサムが麻也を庇って間に入り、フランソワの一撃を受けた。

「麻也に悪気はなかったんだから。分かってよフランソワ」

 引っかかれたり、噛みつかれたりしながら、一生懸命なだめようとするハンサム。腕の中から逃げようとするフランソワをしっかりと抱きしめて愛撫するハンサムに、ようやく落ち着いて動かなくなった。麻也はフランソワの目に涙が浮かんでいるような気がした。

「まあ、ホントに素敵な猫ちゃんね。名前はなんて言うんですか?」

 正月にいきなり跡宮由香が訪ねてきた。目的はもちろん噂の真偽を確認すると同時に、あわよくばハンサムにアタックするつもりだった。

「フランソワっていう名前だよ。僕の恋人なんだ」

「そうなんですか。フランソワちゃん、ホントに可愛い」

 本当の恋人のように愛しそうに猫を愛撫するハンサム。ハンサムの膝の上に乗っかったまま、動こうとしないフランソワ。ハンサムからうんと離れて座る麻也。これは脈がありそうだと考えた由香が、猫を口実にハンサムの側に移動して、フランソワを撫でようとした。いきなりフランソワが歯をむき出して威嚇する。

「きゃっ」

「あ、フランソワは女性が嫌いなのよ。近づかない方がいいわ」 と、麻也。

「あら、恋敵にでも見えるのかしら」

 冗談のつもりで言ったのに、誰も笑わない。フランソワに水をさされて、由香は早々に帰っていった。

「おい、ハンサム、ちょっと」 孝之が呼び止めた。

「最近、麻也とうまくいっているのか?」 廊下の隅でひそひそと聞く。

「うん。どうして?」

「いや、それならいいけど。麻也が勉強に忙しいからと言って、猫にうつつを抜かして麻也をほったらかしにしたりするなよ」

「フランソワと一緒にいるけど、麻也の事は今でも大好きだよ。変わっていないよ」

「それならいいけど・・・」

 その時、ハンサムを探していたフランソワが見つけて飛んできた。ハンサムが孝之に苛められていると感じたのか、フゥ~ッと威嚇する。フランソワの勢いにおされて孝之は早々に退散した。

「ねぇ、月影さんの事なんだけど、そろそろ、社会復帰を考えたほうがいいと思うの」

 母が相談をもちかけてきた。

「始めはね、アルバイトとか、時々でいいから、簡単な仕事をして、様子を見たほうが良いと思って。いつまでも、猫と遊んでばかりいるわけにもいかないでしょ?」

 ハンサムが人間生活に慣れてきた事で大丈夫と判断したのかもしれない。

「うん。分かった。僕、仕事するよ。でも、僕に出来るかな?」

 ハンサムの言葉を聞いて俄然勢いの出てきた母。

「大丈夫よ。早速、手配するわ」

 側で、麻也とフランソワが不安げに見ていた。

『働くなんて、気が知れないわ』

「しかたないよ。僕、今は人間だもの。これからずっと人間として生きていかなくちゃならないから」

『それも、これも、みんなあの娘のせいだわ。自分勝手に他猫の猫生を変えちゃうなんてワガママもいいとこよ。どっかに行っちゃえばいいんだわ』

「そんなふうに麻也を言わないでよ。僕はフランソワが大好きだけど、麻也も大好きなんだから。それに、麻也に出会ったから、僕は助かってここにいるんだし、フランソワに会えたのも麻也のお陰だよ」

 フランソワは黙ってそっぽを向いた。

 次の日、行ってきます、と言って麻也の母と一緒に仕事に出掛けるハンサムを見送ると、窓辺に座り込んでどこにも行かず、フランソワは終日外を見つめてハンサムの帰りを待っていた。麻夜はその不安そうな後姿を自分に重ねていた。

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ハンサム・ザ・キャット~捨て猫物語~ 〈18.クリスマスの夜の出来事〉

 ハンサムと犬を見失ったまま、息を切らしながら麻也が走っていくと、遠くの方でブルドッグらしい吠え声が聞こえてきた。

 ようやく駆けつけた麻也が見ると、電信柱の下でブルドッグが吠え立てている。ハンサムは、と見ると、器用にも柱の天辺に猫座りをして、下を見下ろしたまま固まっていた。

「待っててね」

 荷物を下に置き、ブルドッグの首輪に付いているチェーンを持って、執拗に吠え立てて動かないのを、両手で力づくで引っ張って引き離した。通りの角を曲がると、ようやくおとなしくなったので、そのまま元の店まで引き返して連れて行った。

 麻也が電柱のところまで戻ると、ハンサムが見当たらない。ハンサムの名を呼びながら探すと、近くの大きな家の植え込みの下で、その家の飼い猫らしいペルシャと話しこんでいた。

「ハンサム?」

「まぁや! とうとう見つけたよ、僕」

 喜びで一杯の笑顔で麻也に抱きつく。

「えっ!? で、では、あの猫がフランソワなの?」

「ううん。彼は情報をくれた、ジョニーって言うんだ」

「フランソワは?」

「彼がここへ来る前に住んでいた所にフランソワと同じ名前と年恰好の猫がいたんだって。ここから電車に乗って、三つ目の駅の街だそうだよ。ぼく、今日にも行きたいけど、だめかな?」

「いいわ。一緒に行きましょう」

 三つ目の駅で降りると、ハンサムはそわそわと落ち着かなくなった。

「うわぁ、広い街だね。雪館さん家、みつかるかな」

「警察で聞いてみましょう」

 珍しい名前なのですぐに調べがついた。バスに乗って15分、街の山の手方面へ行くと、緑に囲まれた綺麗な住宅街が現れた。

「フランソワ、今もこの街に住んでいるといいけど」

 書き留めたメモを見ながら、その家にたどり着いた。

 玄関を訪れようとした時、家の裏の方から赤ん坊の泣く声が聞こえてきた。庭の方に回って様子を見る。庭の藤棚の下に、揺りかごと、藤で出来た椅子とテーブルがあり、上品そうな若い女性が、揺りかごの中の赤ん坊をあやしていた。

「フランソワ!」

 突然ハンサムがフェンス越しに叫んだ。猫は籐椅子の上に座って向こう側を見ていたが、ハンサムの声を聞いてこちらに顔を向けた。

「フランソワ、僕だよ、ハンサム・・じゃない。ミュウだよ! ミュウ! 覚えている?」

 シャム猫のフランソワはじっとハンサムを見つめていたが、椅子を飛び下りてこちらにやってきた。

「僕だよ。ミュウだよ。フランソワ」

 白い金属製のフェンスのすぐ側まで来ると、何事かハンサムに話しているような様子のフランソワ。

「うん。僕は今は人間だよ。でも、本当にミュウなんだ。ずっと探していたんだよ。やっと見つけたんだ。フランソワ、僕と一緒に行こう。おいでよ」

 が、フランソワは戸惑っている様子だった。

「うちのフランソワがどうかしまして?」

 雪館婦人が赤ん坊を抱いて、こっちにやって来た。

「あ、あの、実は、お宅の猫のフランソワとこの人が知り合いだったようなので、」

「フランソワは僕の大切な猫なんです。知らない間に何処かへ行って離れ離れになっていたけど、やっと巡り会えたんです」

「まぁ、そうなの? もしかして、いただいた先の家の方なのかしら?」

「あ、あの、・・・」

「いいわ。お返ししますわ」

「えっ? あ、あの、その家とは関係ないんですけど」

「そうなの? でもいいわ。差し上げます。本当の事を言うとね、誰かもらってくれる所を探そうかと思っていたの」

「え?」

「この子がね、どうも猫の毛のアレルギーらしいの。フランソワが仲良くしてくれるのはいいんですけどね」

 フランソワが赤ん坊の方を見上げて何事か考えている目つきをした。と、フェンスを飛び越えて、ハンサムの胸の中に飛び込んでいった。

「フランソワ!」

 喜びに輝いてフランソワを抱きしめるハンサム。フランソワはハンサムの匂いを嗅ぐと、思い出したのか、突然甘えた様子でスリスリしだした。

「あら、本当に知り合いだったのね。良かったわ。大事にしてもらえる所に貰っていただく事が出来て。ありがとう」

「いいえ、こちらこそ、ありがとうございました」

 帰りの電車の中、ハンサムはフランソワを着ているセーターの中に入れて運んだ。フランソワは胸に抱かれておとなしく家に連れられてきた。

「まぁや、本当にありがとう。でも、僕だけじゃなく、フランソワまで、本当にまぁやの家に住んでもいいの?」

「もちろんよ。だってフランソワはハンサムの大切な猫ですもの」

「ありがとう、まぁや。良かったねフランソワ。これからは僕達ずっと一緒にいられるよ」

 フランソワは複雑そうな顔をしていた。

『ねぇ、ミュウ。わたし、ハンサムよりミュウのほうがいいわ』

「名前は変わっても僕の中身は変わっていないよ。フランソワが呼ぶときはミュウでいいよ」

『猫語で話さないのね』

「あ、そうだね。僕、人間になったからね。でも、人間になっても僕は僕さ。猫語も分かるから大丈夫だよ」

「その猫はクリスマスプレゼントなの?」 夕食の時に祐希が聞く。

「いいえ。よそでもらってきたの。今日から飼うことにしたの。猫のハンサムはいなくなったから、代わりにいいでしょ? お母さん」

「いいけど、シャム猫って高価なんじゃないの?」

「その家の赤ちゃんがアレルギーで、もらって欲しいいって。それでいただいてきたの」

『ねぇ、ミュウ。わたしの飼い主はミュウになるの? それとも、この女の子?』

「フランソワは僕の大切な猫だよ。飼い主はまぁやさ」

『麻也でしょ。その言い方気に入らないわ』

「ごめん。気に入らないのなら直すようにするよ」

 フランソワが真ん中になって、ふたりと一匹が川の字になって寝ようとすると、フランソワがもぞもぞとした。

『ミュウ。わたし、ミュウとふたりだけで一緒に寝たいわ』

「どうして麻也と一緒ではいけないの?」

『わたし、この飼い主、なんとなく気に入らないの』

「とても優しい、いい飼い主だよ。そのうち、フランソワにも分かるよ」

 と、言うと、フランソワは寝床を飛び出して、机の下にもぐり込み丸くなって寝ようとした。

「フランソワ! 寒いから布団の中で寝なくちゃ。風邪を引くといけないよ」

「フランソワがどうかしたの?」

「麻也と一緒に寝たくないって。きっと、まだ麻也に慣れていないんだ。僕、別のお布団でフランソワと一緒に寝てもいいかな?」

 麻也にはなんとなく分かるような気がした。フランソワが自分を見る目つきに女性を感じるのだ。来客用の布団を持ってきて、机とベッドの間に敷くと、フランソワはおとなしくハンサムと一緒に布団の中で寝た。

 クリスマスの夜、麻也はひとりで寝る事になった。

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ハンサム・ザ・キャット~捨て猫物語~ 〈17.ハンサムとデート・パート2〉

 上乗せされた噂はあっと言う間に拡がったが、受験勉強が本格的になる時期でもあり、冬休みで多少鎮静するのではと期待して、麻也はノーコメントを貫いた。

 麻也が築いた優等生の評価は全て崩れたかと思ったが、ハンサムと猫にまつわるおかしな噂まであるため、学校側は親の釈明を信じる態度を取った。

 麻也と成績を争う学友達は聞こえよがしに意地の悪い事ばかり、受験のライバルがひとり減る期待が見え隠れしている。進学あぶない組からも、一部の称賛の声もあったが、殆どは中傷だ。あとは優等生を面白おかしく揶揄する者が多勢を占めていた。

「幸坂さん」

 再び、森岡聡史に呼び止められたのは、終業式が終わった帰りの校門の前だった。

「幸坂さんて強いんですね」

 今度は、言葉がすらすらと出てくる様子だった。

「どうして?」

「あんなヒドイ中傷や噂が飛び交っているのに、毅然として少しも揺るがないなんて。僕、すごいと思います。僕、そんな幸坂さんが、す、好きです。僕は信じてますから」

「全く気にしていない訳ではないの。でも、考えても仕方がないわ。自分の道を行くしかないと思って。信じてくれてありがとう」

「は、はいっ」

「冬休みの受験勉強がんばりましょうね」

「は、はいっ」

 握手のつもりで片手を出すと、両手でしっかり握り返してくる聡史。頬を赤くそめたまま、いつまでも後ろから手を振って麻也を見送ってくれた。彼だけは例外のようだ。

 と、駅への道を迂回して行く麻也の前に、生徒会長の尾之多博行が現れたのには麻也も驚いた。

「やあ」

「はい」

「図書館に寄って行くの?」

「あ、いいえ」

「そう。学校の帰りに時々この道を通って図書館に行くのを見かけたから。一緒に駅までいい?」

 うなずきながら、麻也はどういう風の吹き回しなのかといぶかしんでいた。博行とは生徒会と部活は一緒だったが、個人的に付き合った事はなかった。彼はいわゆるイケメンで、女性徒にモテモテの優等生だった。付き合っている女生徒の噂も多く、プレイボーイのような雰囲気があった。

 以前、麻也も誘われたことがあったが、冗談は止めてください、と言うと、彼は軽く笑い飛ばしたのだった。夏休みに生徒会の面々で一泊旅行をしようと誘われた時も、麻也は断った。特別な感情を持たれているとは麻也は思っていなかった。

「あんな噂、気にしないほうがいいよ。みんなオモチャにする物が欲しいだけさ」

「大丈夫です。気にしていたらキリがありませんから」

 博行はくくっと笑って、

「さすが、鉄の女だね。あっ、と、ごめん。みんなが裏で君の事をそう呼んでいるんだ。でも、僕は、鉄の中に柔らかい君がいるって事も知っているよ」

「わたし、鉄と言われても構いません。受け入れてくれる人がいますから」

「それって、森岡?」

「秘密です」

 狭い道にさしかかった。ふたり並んで通るのが難しいので、一歩ずれて歩こうとした麻也の腕を、博行がつかんで引き寄せた。

「僕は、鉄の君も好きだけど、柔らかい君も好きだな」

 そう言うと、息がかかるほどの距離に顔を麻也のほうに近づけた。

「そうですか?」

 と言って、身を反らせて逃げると、

「僕より森岡のほうが好き?」

「ふたりとも同級生です。特別な感情は持っていません」

 そう言って腕を振りほどこうとすると、さらに、

「君、僕を誤解してるよ。プレイボーイかなんかと思っているんじゃない?」

「そうじゃないんですか?」

 と、振り切って、もう言う事は何もないという風に、ひとりで先にずんずんと歩を進めていった。博行は麻也に追いつくと、

「僕は森岡に君を譲ったりしないよ。他の誰にもね」

「誰を好きになるかなんて、わたしの自由だと思います」

 麻也が言うと、博行はしばらくの間、じっと麻也を見ながら考えていたが、

「僕は君に特別な感情を持ってる。付き合って欲しいんだ」

 と、生真面目な顔付きで言った。

「ごめんなさい。今は受験の事しか考えられません」

 突っ放したつもりなのに、結局駅まで付いて来て、

「さっきの事、もう一度考えておいて欲しい。僕は本気だからね」

 そう言って博行は別れて行った。とにかく、冬休みに入って、しばらくの間は雑音に悩まされずにすみそう、と思う麻也だった。

 受験勉強にいそしむ麻也の部屋の窓に北風がぴしりと音を立て、冬の気配が強まった。この寒空の中、ハンサムはフランソワを探して、今日もどこかへ出掛けている。まだひとりで電車に乗る事は出来ないが、自転車に乗る練習をしてからはかなりの遠出が出来るようになっていた。クリスマスが近づいていた。

「ねぇ、まぁや。ずっと勉強ばかりだと体に良くないよ。たまには息抜きに僕と『デート』 しない?」

 翌日、ハンサムに誘われるまま、街へと出掛けた。クリスマスソングも賑やかに活気のあふれる街角を、ふたりで買い物した。ハンサムはソフトクリームが気にいっていて、見つけると買って来た。人目があるので手をつなぐのはやめたが、麻也の気分は明るくなった。

「え~っ!? 幸坂さんっ!?」

 素っ頓狂な声を出して、人混みをかき分けて近寄ってきたのは、跡宮由香。

「が~ん! やっぱり噂どおり美形だわ」 

 両手で顔をはさんで、大げさに騒ぐ。

「ねぇねぇ紹介してよ」

「こちら、月影ハンサム君。こちらは跡宮由香さんよ」

「初めまして。わたし、麻也の親友の由香です」

「まぁやから聞いて知ってるよ」

「きゃあ、ホント? 記憶喪失って本当ですか?」

「あはははは」

「ねぇ麻也、ふたりでこれから何処へ行く予定なの? まさかのクリスマスナイトだったりする?」

「買出ししただけよ。これから家に帰って受験勉強の予定」

「なぁにそれ? もったいないわねぇ。クリスマスぐらい遊びなさいよ」

 三人で話しながら歩いていくと、ペットショップの店先に繋がれていたブルドッグがハンサムに気づいて吠えはじめた。血の気が引いたように真っ青になって、腰が引けるハンサム。

「ま、まぁや。あ、あっちに戻ろうよ」

 そう言っている間に、繋いであったチェーンがはずれて、ブルドックはこちらに向かって突進してきた。いきなり荷物を放り出して逃げ出すハンサム。あっと言う間に街角を曲がって姿を消した。ブルドッグが後に続く。

「え? え? 一体どうしたの?」

 何が起こったのか分からない由香をそのままに、荷物を拾うと、麻也も後を追い始めた。

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ハンサム・ザ・キャット~捨て猫物語~ 〈16.晴天のヘキレキの噂〉

 月の光が路地裏を照らしていた。麻也はひとりで歩いている。鉄製の階段の所に来ると、何とはなしにガチャガチャの器械が置いてあった所が気になって、見ると、器械はなく、黒い靄のような物が蠢いているのが見えた。靄は麻也に気がついたように、形を保ったまま、黒い生き物のように柔軟に蠢いて、こちらの方に近づこうとした。背筋をゾゾゾとしたものが走り、麻也は逃げようとしたが、足が地に凍りついたように動かない。悲鳴をあげたと思ったが、声が出ていない。すくんだ麻也を靄が覆い隠すように包もうとした。

 汗ぐっしょりで目を覚ますと、まだ真夜中で、隣に寝ていたハンサムが心配そうに麻也の方を覗き込んでいた。

「どうしたの?悪い夢でも見たの?」

「ハンサム」

「大丈夫、夢だよ。本当のことじゃないから大丈夫」

 優しく肩を抱くハンサムの腕の中で麻也は苦しかった。解決方法があった事と、解決したくない自分に気がついたのだ。しばらくして落ち着くと、目が冴えて眠れなくなった麻也はハンサムに話しかけた。

「ハンサム、わたしまだ聞いてない事があったわ。ハンサムはやりたい事があって美弥ちゃんの家をでたのよね。そのやりたい事って何だったの?」

「うん、とね。最初から話すとね、僕が美弥ちゃんの家にいた時、近くの家にとっても可愛い子猫がもらわれてきたんだ」

「女の子?」 ドキドキしながら麻也が聞く。

「うん。フランソワっていう名前だよ。僕はその子をひとめ見て運命的なものを感じたんだ。僕達はお互いにとっても気に入って、とっても仲良しになった。でも、フランソワの飼い主が急に引っ越してしまったんだ。近くの友達に聞いても、行き先も何も分からない。僕はフランソワに別れの言葉さえ言う事が出来なかった。ううん。引越しを知っていたら、僕はフランソワに残ってもらうようにするか、僕がついていくか出来たと思う」

「それで、フランソワを探しに旅に出たのね」

「うん。そうしなきゃいけないような気がしたんだ」

「いつも昼間出かけているのはそのため? 今でもあちこち探しているのね」

「そうだよ。ん? どうかしたの、まぁや?」

 声もなく涙を流す麻也の肩を優しく包むハンサムだった。

 次の朝、いつものように、サンドイッチのお弁当をハンサムのために作った。食事の支度をハンサムが手伝ってくれるようになって、家事が楽しいものになっていた麻也。今日は最後になると思うと淋しかった。

 学校の帰りに路地裏に足を向けた。ところが、鉄階段の下の所に来ると、どうした事か、あの器械が見当たらない。あちこち覗いて確かめたが姿も形もない。あの不思議な紳士がもう片付けてしまったのだろうか。

 麻也は複雑な気持ちになった。今のままのハンサムに側にいて欲しいのに、戻れなくなってほっとしているのに、元に戻してあげられない事が心に痛みを感じさせた。

「幸坂さんっ!」

 勢い込んで隣のクラスから跡宮由香が駆け込んできた。生徒会は文化祭が終わると休眠状態で、由香とはしばらく会っていなかった。由香とは生徒会仲間という関係だったのだ。

「聞いたわよっ! 同棲しているんですってね!」

 慌てて麻也が由香を廊下に連れ出したが、後の祭りだった。教室の全員が聞き耳を立てている様子が見て取れる。

「それ、どこで聞いたの?」

「そこは蛇の道よ。まさかの晴天のヘキレキの噂だわ。ねぇ、誰なの? 相手の名前は? 学生じゃないんですってね。ゆかりがモールで長髪の美形と歩いているのを見たって聞いたわ。どこで知り合ったの? 自分ちの部屋で寝泊りしているって、本当? 記憶喪失なんてロマンティックよね。ねぇ、将来結婚する気なの?」

 そう言えば、由香の父は病院を経営していて、母とも知り合いだった事を思い出した。こうなると、何を言っても開きっぱなしの蛇口はふさがらないだろう。それだけ知っていたら、言う事は何もないわ、と思いながら、

「ノー・コメント!」

 開き直って放っておく事にした。が、事態は噂だけにとどまらなかった。

 放課後、生徒指導室に呼ばれた麻也はいつになく神経質になっている教官にいろいろと問いただされた。母に来てもらって説明してもらう方が良さそうだと、麻也は判断した。

「同棲ではないんですね?」

「ええ、記憶喪失で行き先が無いので、家で保護している青年です。麻也が親しくしているのを誰かが見て誤解したのですわ」

 あっさりと言ってのける母の言葉を聞いて、教官たちはほっとしたようだった。なにしろ、麻也は優等生である。今期の最優秀大学進学候補なのだ。下手すると、有名大学進学の看板が一つなくなりかねない。

 ところが、とんだ方向から伏兵が現れた。ハンサムが猫の集会所で猫と話をしていたのが発端だった。

 野良猫に餌をやったり、避妊手術を施したりして、世話をしている猫好きのおばさんが、たまたまハンサムに出会ったのは、枯葉舞う11月も末の公園だった。

「あんたも猫が好きなんだね」

 おばさんは自分と同類と思われる青年に声を掛けた。

「うん。おばさん、猫の世話を一杯してくれている、瀬尾さんでしょ?」

「おや、まぁ、どうやってわたしの名前を知ったんだね? 猫にでも聞いたの?」

「そうだよ。あそこにいる白い猫、『まり』っていう名前なんだけど、おばさんに避妊手術をしてもらったって、いろいろ教えてくれた」

「へぇ!? あんた、猫とお話出来るの!?」

「うん。まりがね、餌をもらえるのや、優しくしてくれるのは嬉しいけど、手術を受けてから体の調子が悪くて困ってるって」

「えぇっ? そうなのかい?」

「手術がうまくいかなかったのかもしれないよ」

「それは悪いことをしたね。今度、医者に診せに連れて行くよ」

 いつの間にかハンサムに引き込まれて、おばさんはまりのほうを見た。

「ハンサムさん、この間、まりを医者に連れて行ったらね、あんたに聞いたとおりだったよ」

 再びハンサムが公園を訪れた12月半ば、おばさんはハンサムと会うのを待ちかねていたように、話し出した。

「手術に使った器具をお腹の中に忘れていたんだってさ。出してもらったからもう大丈夫だと思うけど、聞いてみてくれるかい?」

 ハンサムが話しかけようとする前に、まりのほうからやってきて何事かハンサムに伝えた。

「体の調子が良くなったって。おばさんに医者に連れて行ってもらった事のお礼を伝えて欲しいって」

「そりゃあ良かった」 おばさんは安堵の声をだした。

「でも、子供が出来なくなって淋しいのは変わらないって言ってた」

「えっ」 と、声を詰まらせるおばさん。まりの後姿を見ながら複雑な思いだった。

 猫と話の出来る不思議な青年と猫好きのおばさんが、猫以外の話をするようになったのも自然の成り行きだった。

「幸坂さんっ!」

 再び由香が教室に飛び込んで来たのは、クリスマスも間近になった学期末だった。

「やっぱり同棲してるんじゃない! 同じベッドで寝てるって聞いたわよ!」

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ハンサム・ザ・キャット~捨て猫物語~ 〈15.変身後狂騒曲・その3〉

 一杯買い物をして夕方帰ってくると、祐希が玄関に迎えに出た。これはもしかして初めてでは?

「おかえり、お姉ちゃん」

「ただいま。何かあったの?」

「最近猫がいないけど、どこかへ行っちゃったのかな?」

「祐希、あんたがいじめたりしたからどこかに行っちゃったんじゃないの?」

 台所洗剤の話やら、二階の窓から空中ぶらりをやったりした事をハンサムから聞いていた麻也は、その事を言いたいのを我慢して言った。

「違うよ。祐希はいじめでやったんじゃないよ」

 答えはハンサムのほうから返ってきた。

「祐希は自分を信じてくれるかどうか試そうとしただけだよ。ね? 僕、分かっていたから大丈夫だよ。祐希は信じてくれる仲間が欲しかっただけなんだ」

 びっくりして、ドギマギしながら、いぶかしげにハンサムのほうを見る祐希。

「だとしても、本当の事故になっている可能性もあるわけでしょ。やっぱり、やってはいけない事をやったのよ。謝りなさい、祐希」

「ごめんなさい。お姉ちゃん」

「違うわ。ハンサムに・・」 言いかけて、口をつぐむ麻也。

「いいよ。僕、知ってたから」 と、ハンサム。

「??」

 さすがに祐希も食い違いに気づくと、何か変だぞといぶかしげに、

「そういえば、この人、猫と同じ名前だね」

「そ、そうよ。猫のハンサムはどこかへ行っちゃったから、かわりにこのハンサムに謝っておきなさい」

「それ、意味無いよ。お姉ちゃん。猫のハンサムが変身したって言うのなら別だけど」

「あ、そ、そうね。わかったわ。猫のハンサムにはわたしから祐希が謝っていたって伝えておくわ」

 ハンサムが口を開ける前に、麻也がまとめた。

 夕食時、麻也はあせった。父が通常の帰宅時間に帰ってきたからだ。夕食はいつも4人分なのに、急いでひとり分、いや、今日からは6人分になった。

 父は出張で風邪を引き込んだ事にしたらしい。本当はハンサムと話したかったのだろうけど、なかなか自分から話すのは難しいとみえて、結局、何も言わずに、箸の使い方の下手なハンサムが一杯食べ物をこぼしたり飛ばしたりしながら、時には素手で食べるのを、苦虫を噛み潰したような顔で見ていただけだった。

 祐希は猫のハンサムがどこかに行ったと聞いて、しょんぼりしていたが、夕食時にはちゃんとみんなと一緒に食卓について、人間のハンサムの観察に余念が無い様子だった。

 兄はと言えば、急に麻也に優しくなって、自信を取り戻したかのようになった。食事時にも、ハンサムの行動をとりなす余裕さえ見せている。

「麻也。明日、月影さんに付き合ってもらいたい所があるの。記憶喪失の専門家に見ていただいたらどうかと思って」

 母にとっては得意の分野、すでに何もかも手配済みの事だった。

 食事の後片付けが済むのを待って、母が麻也を廊下の隅に呼び寄せて、何か包みを渡した。

「これ、何?」

「あなたの体の事が心配なの。今すぐに使ってみてちょうだい」

 包みを開けて、中から出てきた箱の説明書を読むと、麻也の顔がパッと赤くなった。

「正確ではないけど、取り敢えず今の状態を知っておきたいのよ。必ず使ってね」

 無意味だと知りながら、母を安心させるために、麻也は妊娠検査スティックを使うことになった。結果を見て安心した母はさらに別の箱の包みを手渡した。

「彼に言って使ってもらうようにしなさい。いいわね、麻也」 

 中身は想像がついたので、包みも開けずに引き出しの中にしまっておいた。

「あ~、え~っと、つまりですね、子供の頃に母親に捨てられたトラウマですね。それと、その後たらい回しにされた養育環境。これらが影響していると思われます」

 母がハンサムを診せた、記憶喪失が専門という肩書きのある医者やカウンセラーによって、いつのまにか辻褄が合わされ、ハンサムは心的外傷症候群による記憶障害という診断をされてしまった。

「その症候群のせいで、知能や行動にも影響があるのでしょうか?」

「彼の場合、多少問題行動があるようですが、生活するのに支障のある範囲ではありませんね。知能も一応正常の範囲です」

 それを聞いて母は少し安心したようだった。猫の習性が出たと知っているのは麻也だけだ。結局、身元は不明のままだった。当たり前の事だが。

 麻也にとってはまるで新婚夫婦のまね事のように楽しい日々だった。いつも忙しい麻也を見て、ハンサムが不器用ながらも家事を手伝ってくれるようになった。毎日一緒におしゃべりしながら食事の支度をする。買い物も、洗濯物干しも手伝ってくれる。ハンサムのお陰で仕事ははかどり、麻也が勉強する時間は前よりも増えたくらいだった。

 毎朝、ハンサムの分もツナのサンドイッチのお弁当を作る。ハンサムは昼間はいつも外に出掛けるからだ。猫だった時の仲間に会いに行ったり、遠くまで散歩に行く様子で、夕方には必ず帰ってきて、麻也と一緒に家事をする。猫だったハンサムにはその習性から、自由な外の空気が必要なのだろうと、麻也は思った。

「お姉ちゃん、ハンサムって今までどうやってお風呂に入ってたのかな?」

 祐希が不思議そうに言った。ハンサムは猫だった時からお風呂に入るのが大好きだったが、人間になった今でも麻也と一緒に入りたがるのを、何とかひとりで入るように説得したものの、洗い方を知らない事に不安を感じて、祐希と一緒に入ってもらうようにしたのだ。

「上手に洗えてなかった?」

「僕がいろいろと教えてやったよ」

「ありがとう」

「・・・」

 不審げに麻也を見ていた祐希だが、何も言わずにパタパタとスリッパの音を残して自分の部屋に入って行った。

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ハンサム・ザ・キャット~捨て猫物語~ 〈14.変身後狂騒曲・その2〉

 波乱の一夜が明けて、幸坂家の朝の食卓には、近年になく珍しく、家族全員が座っていた。父と母の目の周りには、寝不足と喧嘩の名残の隈が出来ている。

「おはようございます」

 と、ハンサムがにこやかに挨拶して、麻也の席の隣のあつらえた椅子に座ると、しゃべるのも億劫になっている父と母が、険悪と憂鬱の入り混ざった表情で彼を見た。

 麻也がちょっと遅めの朝食をみんなに配り終えて座ると、

「いただきま~す」

 みんなが注視している中、元気の良い声で言って、ハンサムだけツナのサンドイッチと牛乳の食事を始める。

「いただきます」

 続いて麻也が、味噌汁とアジの干物とご飯の朝食を食べ始めると、孝之と祐希が黙って同じものを食べ始めた。父と母は手もつけずに、何をどう言おうかと思案しているようだった。

「まぁや、そのアジの干物おいしそうだね」

「ええ。欲しいのならあげるわよ」

「本当? ありがとう!」

 喜んだハンサムはアジの干物を手でつかむと、そのまま大きなアジの頭から美味しそうにかじり始めた。注視する家族に麻也がフォロ-する。

「あ、あの、彼、ハーフらしくて、まだお箸の使い方がうまく出来ないの」

 食べ終わるとハンサムはアジの匂いの付いた手をペロペロと舐め始めた。慌てて麻也がタオルを濡らして持ってきて、手を拭くように指示する。

 その様子を見ていた父と母にはあんぐりといった表情がプラスされる。父が口を開こうとしたその時、孝之がイニシァティブを取った。

「とにかくさ、しばらく様子を見る事にすれば? 彼の事も良く分かってくると思うし、麻也の頭だって冷静に戻るかもしれないしさ」

 父は開きかけた口を塞ぐと、しばらくモゴモゴとしていたが、ムスッとした顔でそっぽをむくと、もう用はないと言うように席を立って、一言。

「仕事に行く」

 母が後に続いて黙って席を立った。

「幸坂く~ん」

 折りしもその時、祐希を誘いに来てくれた女の子の声が聞こえる。

「ごめんなさい。今日は行かないと思うわ」

 祐希に何も聞かず、母が断ると、

「ううん、今日は行くよ。お母さん」

 さっさと準備をすませていた祐希が玄関に向かって弾かれたように駆け出していった。

 登校していく祐希と女の子の後姿を見ながら、『そういえばあの子、女の子が迎えに来たときは登校するわ。なぁぜ?』 と、疑心暗鬼の母。

 孝之が予備校へ出掛けると、母と麻也とハンサムの三人が残った。母のボランティアは祖母の事があったので、キャンセルしてあったらしい。麻也の方は今日は文化祭の翌日で、日曜の代わりの休校だった。

 食事の後片付けを済ませて、ハンサムとふたり食卓に座っていると、母がやってきて、

「ちょっといいかしら?」

「ええ、どうぞ」

「彼の事なんだけど、まだ名前と両親と生き別れになった事ぐらいしか聞いていないわよね。生い立ちとか、育った環境とか、いろいろ知りたいわ。ハーフとか言っていたけど、両親はどこの国の人?」

 あの騒ぎの中でもちゃんと麻也の言葉を覚えているのはさすがだなと思いながら、ハンサムが警察で言ったような事情を話した。

「まぁ、記憶喪失というのは本当なのね」

 ちょっとだけ同情的になる母。ちょっとだけ麻也の心が痛んだが、ほかに辻褄の合わせようが無い事情である。

「それで、これからどうするつもりなの?」

「どうもしないわ。ふたりとも家にいても良いのなら、今までどおりの生活をしたいわ」

「って、言っても、ご近所の手前もあるし、将来結婚するつもりならそのようにきちんと手続きってものがあるでしょう?」

「お父さんが許すと思う?」

「いいえ、今の状況では、・・・」

「でしょ。わたし、今のままで構わないわ」

「そんな、今のままって、・・・。月影さん、あなたどういうふうに考えているの?」

「僕は、まぁやと一緒にいられたらそれだけでいいよ」

「あのね、世間はそうそう甘くないのよ。きちんとすべき事はしなければ」

「せっけん? 僕もなめた事あるけど、苦いよ。どんな事をすれば甘くなるの?」

「例えばね、あなた、仕事は? 今、働いているの?」

「ううん。働くって、」

「待って、お母さん。彼、記憶喪失だって言ったでしょ。休養が必要なのよ、今は」

 微妙に食い違いながら進んでいこうとする話を軌道修正しようとする。母は不承不承その話を引っ込めたが、思いついて、

「分かったわ。彼の身元を確かめるのが先決ね。こうなったら、警察だけに任せて置けないわ」

 急に水を得た魚のように生き生きと動きだした母を、少し不安げに見守る麻也。母が電話している先はどうやら何処かの相談所らしい。

「ちょっと出掛けてくるわね。あ、それから、麻也、月影さんは記憶喪失のために家が保護している事になっているのよね?」

「ええ、警察ではそう言ったけど。そのうち調べた結果を連絡してくれる事になっているわ」

「わたしも表向きはそういう事にしておくから、いいわね? 麻也?」

 と、ひそっと耳元で言う母に、

「えっ・・・。でも、お母さん・・?」

 それでいいのかしらと思いながら言うと、

「とにかく、取り敢えずよ、麻也。ああ、それから、孝之の服ばかりでは困るでしょ。新しい服でも買ってあげなさい。それじゃあ、行ってきますからね」

 と、お金を渡してくれた。辻褄が合わなくなったらどうする気なのかしら、と、考えて、それ以上に真実の方が辻褄が合っていない事に気づいて、ちょっと可笑しくなった。

「ねぇ、ハンサム、洋服買いに行こうっ」

 ふたりで堂々と、喜び勇んで出掛ける麻也だった。

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ハンサム・ザ・キャット~捨て猫物語~ 〈13.変身後狂騒曲・その1〉

ハンサムから話を聞いた麻也は、状況を悟って腹を決めた。すると、どういうわけか、気持ちがすっきりして、ほっとした。

「ごめんね、まぁや。僕、隠れ方が下手だったのかな」

「いいのよ。わたしのほうこそごめんね。わたしのために・・・。それより、これからの事だけど、ハンサムが猫だったって事はやっぱり内緒にしておいてね。勝手だけど」

「うん、いいよ。僕、ずっとまぁやと一緒にいてもいいの?」

「ええ、ハンサムが望むなら」

「良かった! まぁや!」

 麻也を抱きしめるハンサム。恋人のハグでもなく、ペットのそれでもなく、暖かい心あふれるハグだった。

 翌日曜日は麻也の高校の文化祭だった。孝之は予備校の模試に出掛け、ハンサムが一人で留守番をしている。不思議に不安感はなかった。

「副会長ウェル・カムバック!」

 テキパキと文化祭の行事を片付ける麻也に、由佳がおどけているのか安堵しているのか分からない調子で言った。今晩起こるであろう波乱の出来事があるにもかかわらず、全力を義務に集中する事ができた。

 文化祭の後片付けを終えて帰ると、京都の祖母の入院は大事には至らなかったようで、夜には帰れそうだと、母から留守電が入っていた。申し合わせたかのように、父までもいつもより早い帰宅だった。

 少しでも波風を少なくすべく、麻也は兄の孝之に相談し、ハンサムを加えて、話の筋書きの打ち合わせをしておいた。

 大事な話があると言って、家族全員に客間に集まってもらったのは、11時を過ぎていた。疲れているから今度にしろと言う父を、孝之が引っ張り出した。面倒くさそうに引っ張り出された父は、見慣れぬ青年が座っているのを見て、ようやく只事ではない事に気づき、不機嫌が悪化した表情になった。

「僕、月影ハンサムです」

 ちょっと緊張しながらも、練習したとおりにきちんと座って挨拶をするハンサム。

「麻也、こんな時間になんなんだ。非常識だぞ。さっさと帰って出直してもらえ!」

「あなた、あなたの時間に合わせて来て下さったのかもしれませんよ。少しだけ付き合ってあげて下さいな」

 不安顔の母が、それでも一応カウンセラーをしているだけの事はあって、比較的落ち着いて対応する。

「お姉ちゃんの恋人?」

 家への帰りの自動車の中でぐっすり眠って元気のある祐希は、興味津々の声の響きで、いきなり核心に触れた。

「僕、二ヶ月前から麻也と一緒に住んでいます」

 かなり唐突で意表をついてはいるが、練習どおりのハンサムの言葉。

「なにっ? 一緒に住んでいる? どういう意味だ?」

「わたしの部屋に一緒に住んでいるの」 と、麻也。

「な、なんだとっ? ここは俺の家だぞ。誰の許しを得てそんな事を!」 と、怒りに震える父。

「麻也、そんな事、初めて聞くわよ」 と、おろおろの母。

「ごめんなさい。言うのが遅れました」 と、謝るしかない麻也。

「一緒に住んでるって、お姉ちゃんの部屋狭いのに、どこに寝てるの?」 と、アブナイ混ぜ返しをする祐希。

「まぁやのベッドに寝てるよ」 と、これは予定外のハンサムの素直すぎる答え。

「なにおっ! 人様の娘の部屋に勝手に住み込んで、一体どういう了見だっ!」

 怒り狂った父が立ち上がって掴みかかろうとすると、母と兄が制止するまでもなく、ハンサムは猫の素早さでさっと飛び退いて麻也の後ろに身を隠した。

「こ、こいつっ! ゆ、許せん! なんという奴だ! 女を盾に隠れるなど、それでも男かっ! こんな時は素直に殴られるもんだ!」

 身を震わせながら、行き場のない拳を持て余すと、

「でも、殴られたら痛いよ」

 と、おっとり返事のハンサム。

「も、もう許せん!!」

 突然猛ダッシュして殴りかかろうとする父と、ひらりとかわして逃げるハンサムとの鬼ごっこが始まった。母と兄が父を止めようとし、麻也はハンサムを庇おうとし、入り乱れての鬼ごっこは、父が息を切らすに至って一段落した。

「ハァ・・ハァ・・、こ、この野郎、ハァ・・ハァ・・さ、さっさと家から出て行けっ!」

「お父さん、ハンサムを追い出すのならわたしも一緒に出て行きます」

「ま、麻也、待ちなさい。何を言うの。あなたが出て行くことはないでしょう」

「ごめんなさい。お母さん。わたし、ハンサムと一緒にいたいの。出て行けっていうのなら、わたしも一緒に出て行くわ」

「バカな事を言うな!こんな奴についていってどうするつもりだ。やめろっ」

「そうよ、麻也。今日は引き取ってもらって、今度改めてご両親と一緒に来ていただいて話をするのはどう?」

「彼、小さい時に両親と生き別れになっているの。今はひとりぼっちよ。帰る家なんかないの」

「とにかく、ここは俺の家だ。出て行くのはこいつだけだ! 出て行かないのなら警察を呼んでやる」

「警察の人は、僕がここにいてもいいと言っていたよ」

「??」

「彼、一時的な記憶喪失で、家で保護している事になっているの」

「麻也! おまえ、いつのまにそんな勝手な事を!」

 今度は父が麻也に手をあげようとする。と、ハンサムが間に入って麻也を庇い、平手打ちをくらった。

「やめて! おとうさん! 相談するつもりだったけど、タイミングが悪くて出来なかったの。わたしの判断だからわたしが悪いの。ごめんなさい。だから、彼と一緒に出て行くわ」

「まあ、まあ、ちょっと落ち着いてよ、みんな」

 ここで孝之が割って入った。

「麻也もハンサムも本気のようだし、もう2ヶ月も一緒に生活してるんだよ。取り返しのつかない事もあるかもしれないし、」

 意味深に匂わせると、母が先に気づいて取り乱し、

「麻也っ、避妊はしているんでしょうねっ?」

 祐希が聞いているのも忘れて叫んだ。

「そんなもの、必要ないわ」

 ある意味真実だが、その真実の意味は他の当事者には伝わらない。父、母、ともに愕然とした表情で麻也を見る。

「孫まで追い出すことになるかもしれないんだよ。ちょっと、冷静になってゆっくり考えようよ」

 この部分は孝之が提案した計画だった。

「か、考える必要なんかないっ! 子供なんか処置して・・」

「あなたっ! なんてことおっしゃるんですかっ! 麻也の子供ですよ! それに、万が一産めない体にでもなったらどうするんですかっ!」

「それだけじゃすまないよ。ご近所にその事がばれたら・・・」 と、孝之。

「・・・。大体お前が悪いんだ。外に出てばかりで自分の事にかまけて、子供達の監督を怠ったりするからこういう事になるんだっ!」

 矛先が母のほうに向く父。

「なんですって? わたしひとりの責任だとおっしゃるんですか? あなただって、仕事、仕事と言って、ろくだま家にいなかったじゃありませんか! 子供達の事だってわたしに全部押しつけて、相談にものってくれなかったのはあなたでしょ!」

 涙ぐみながらまくし立てる母。

「わたしだって、構って欲しかったのに、最近3ヶ月もご無沙汰じゃありませんか。2ヶ月も一緒にいたなんて、羨ましいくらいだわ。ひょっとして、あなた、浮気でもしてらっしゃるんじゃありませんか?」

「な、何をバカな事を言い出すんだ?」

 夫婦喧嘩の様相を呈してきたので、孝之が三人を誘導して部屋の外に出た。

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サミィのモノローグ(5)

 今日は木枯らしが吹いて寒くなりました。明日の朝はもっと冷えそうです。

 〔サミィの絵本〕と同じ題名の漫画があったので、ブログの名前を改名します。と、いうか、一番最初に考えた方に戻します。

 小説の方はちょっとたまってきたので、しばらく週2~3回くらいのペースで載せてみようかなと。

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サミィのモノローグ(4)

 朝夕寒くなって、暖房が恋しくなってきました。

 レースフラワーの白い花が咲き始めました。とっても可愛い花です。

 小説の方、しばらく、週1ではなく、不定期に載せたいと思います。

 

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ハンサム・ザ・キャット~捨て猫物語~ 〈12.洋服ダンスの中のハンサムその2〉

「そんなわけあるかっ! 嘘をつくなっ! こいつっ」

 激昂した孝之がハンサムの胸ぐらをつかみあげて言った。麻也が家の者に内緒で自分の部屋に男を引き込んで、一緒に住んでいるなんてありえない!

「本当はお前、麻也のストーカーなんだろ? 相手にしてもらえないからこんな風に忍び込んで隠れていたんだろ?」

「ち、ちがうよ」

「どこが違うんだ!本当の事を言えっ!」

「本当だよ。僕、嘘なんかついていない。く、苦しいよ」

 ぐいぐいと締めつけていた事に気がついて、腕の力を緩めると、孝之はハンサムの着ている服に気がついた。

「おいっ!お前の着ている服、俺のじゃないか? そうだよ。友達の秀が引っ越して行った時、記念に俺にくれたやつだ。ほら、襟のここに秀のイニシャルが。大事にしまっておいたのに。このやろう! やっぱり空き巣狙いだったのか」

「く、くるしいよ」

 再びハンサムの首根っこを締め上げると、突き飛ばすように放す孝之。

「さっさとそれを脱げ! それから警察に行くんだ」

 もたもたしながら、一生懸命服を脱ぎながら、ハンサムは、

「ごめんなさい。僕、お兄さんに内緒で借りたなんて知らなかったんだ」

「お、お兄さんだと? お前にお兄さんなどと呼ばれる筋合いはないっ!」

「だって、まぁやのお兄さんでしょ? じゃあ、孝之って呼べばいいの?」

「っ!」

 バットを構える孝之に、防御の姿勢をとるハンサム。

「なんで俺の名前を知ってる?」

「だって、まぁやのお兄さんだから」

「ストーカーの空き巣狙いってわけか」

「違うよ。僕、ストーカーじゃない。空き巣狙いでもないよ」

「へぇ! じゃあ、そうじゃないという証拠でもあるのかよ?」

「まぁやに聞いたら分かるよ」

 核心の言葉に追い詰められる孝之。タジタジとなっている孝之にハンサムが続ける。

「僕、お兄さんの好きな人のことも知ってるよ。樫原悦子さん」

 突然の急展開にぎくりとなる孝之。彼女のことは家族はもちろん、誰にも話していない。

「お前、それをどこで?」

「二週間くらい前に、お兄さん、バイクで公園に行ったでしょ。駅の向こうの」

「・・・」

「樫原悦子さんとお兄さんが会っているのを、木の陰からお兄さんが見てたでしょ?」

「えっ? 彼女がお兄さんと会っているのをだって?」

 さらなる新展開に孝之の動悸が高まった。

「うん。僕、それを見て、」

「ちょっと待て! 彼女が会っているのが彼女のお兄さんだって? 一体それはどういう事なんだ? なんでお前がそれを知っているんだ?」

「お兄さんは遠くから見てたけど、僕は近くまで行って、ベンチの裏のほうで二人の話を聞いたから」

「な、なんだって? それ、詳しく教えてくれる?」

 急に低姿勢になる孝之。麻也の事が頭から吹っ飛んでいるのに気がつかない。

 ハンサムから聞いた話をまとめるとこうだ。樫原悦子の両親は、悦子が小さいとき離婚した。悦子と兄の瞭平はそれぞれの親に別れて引き取られて育てられた。両親はその後、それぞれ別の相手と結婚し、疎縁になっていた。それがひょんな事から出会った兄妹は、恋仲になる前にお互いの身元がわかったのだった。悦子は親に内緒で、瞭平と同じ大学にいこうと志したのだが、兄と判った事と、瞭平が家の事情で大学を中退する事になったため、計画を中止したらしい。

「なるほど、そうだったのか。でも、たった一回聞いただけで、そこまでよく分かったな」

「あのふたり、時々あそこに来ていたから」

「えっ? おまえ、彼女の後をつけていたのか?」

「ううん。そうじゃなくて、あそこは猫の集会が開かれる所だから。よく行ってたから、よく出会っただけ」

 こいつ、猫好きで麻也と意気投合したのかな、と孝之は思い、偶然の成り行きに感謝したが、また、麻也の現実に引き戻された。全体、あの秀才の麻也がこんな頼りない奴と一緒に部屋で、しかも家の者に内緒で引き込んで、と、考えると不機嫌が戻ってきた。しかし、自分の恋に一筋の光をくれたし、なにより妹の恋人である。恋の苦しさも十分知っている兄の孝之は、しばらく悩んだ後、麻也の味方になろうと心を決めた。

「ハンサム、お前、麻也の事、どういう風に思っているんだ?」

「僕、まぁやが大好きだよ。ずっと一緒にいたいと思ってる」

「分かった。俺は何も言わないよ。けど、麻也を泣かしたりしたら絶対に許さないからな。覚えておけよ」

「うん。わかった」

 麻也が家に戻ってくると、滅多な事では顔を合わさなくなった兄が出迎えたので、びっくりしてひっくり返りそうになった。

「に、兄さん。どうかしたの?」

「どうかしているのはお前のほうだろ?」

「え? な、なにが?}

「ハンサムのことだよ」

「えっ、あっ、ああ。あの、実は、彼はね、」

「さっさと両親に紹介するべきだろ」

「ええ、そうするつもりだけど、今日はふたりとも留守だし、」

「黙って家に連れ込むのは感心しないな」

「話すつもりだったけど、家に帰ってきたら誰もいないし、」

「できちゃった婚なんてバカなまねはするなよ。来年大学に行くつもりなんだろ?」

「え? あ、違うの。彼はね、」

「俺は反対はしないけどさ。体だけは大事にしろよ」

 と、言うだけ言ってさっさと去っていく孝之に追いすがろうとする麻也。

「あ、あの、兄さん! 待って、違うのよ彼は、」

「何が違うんだ? 二ヶ月も一緒に同じ部屋にいたなんて、なんて羨まし、いや、全然気がつかなかったよ」

「え・・・」

 ようやく、何か予定外の事があったらしいと気がついた麻也は言葉を呑んで立ち止まった。

 自分の部屋に入ると、壊れかけた洋服ダンスが目に入る。中にハンサムが座っていた。1_2

 

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ハンサム・ザ・キャット~捨て猫物語~ 〈11.洋服ダンスの中のハンサム その1〉

 幸坂孝之が家に帰ってくると、台所のテーブルの上にメモが二つ置いてあった。一枚は母からのもの、もう一枚は、麻也が文化祭の準備で少し遅くなるかもしれない、というものだった。冷蔵庫を開けて牛乳を取り出し、コップに一杯飲むと、2階にある自分の部屋に向かった。

 部屋の前まで来た時、隣の麻也の部屋から何か物音が聞こえてきた。猫が戻っているんだなと思い、自分の部屋に入って行った。

 あれから少しは落ち着いて、なんとか勉強出来るレベルに戻ってきていた。相変わらず恋心は捨てていない。二浪人よりは大学生になってから彼女に告白したほうが、三角関係に参入しても勝てるチャンスがありそうな気がした。取り敢えず合格を目指す事が、彼女に近づく第一歩だと考えたのだ。

 隣の麻也の部屋で、ハンサムはいつものように、麻也が買って来た猫ジャラシや、ゼンマイ仕掛けのネズミやら、魚のモビールと戯れたりしていた。ところが、モビールの糸が手に絡まり、外そうとしてちょっと力が入って、吊ってある所から落としてしまった。元にもどそうと椅子の上に立って、上からぶら下がっている紐と結ぼうとした。しかし、吊るのに使われているテグスは、すべってなかなか結べない。出来たかな、と思って放したら、ツルッと外れ、受け取ろうとして手を伸ばした拍子に重力のバランスが崩れ、椅子の下についているキャスターが動き、椅子が倒れてしまった。ハンサムは側の本棚に手をついてパッと飛びのいたが、本棚が揺れて、何冊かの本がドサドサと音を立てて落ちた。

 勉強を始めてしばらくたったころ、麻也の部屋の方から、何かが倒れるような大きな物音を聞いた孝之は、さてはあの猫なにかしでかしたな、と思ったが、ふと、猫がたてるにしてはちょっと大きすぎるのでは、と、周りのものに気を使う余裕の出てきた孝之は考えた。

「麻也? いるのか?」 ノックして尋ねると、何かドアが開くようなギィというような音が聞こえた。

「麻也? 開けるぞ」

 妹の部屋に入るのは随分と久しぶりだった。幼いころは結構仲の良い兄妹だったのだが、中学に進学した頃から少しずつ距離がでてきた。男の子と女の子と言うだけではなく、一つ違いの良くできた妹が、何かにつけて疎ましく感じられるようになっていたのだ。受験に失敗した事が拍車をかけていた。孝之が再び受験に失敗すれば、妹が先に大学生になる可能性が大きいと。

 部屋に入って先ず目についたのは、倒された椅子と本棚から散らばった本。それに絡みついた魚のモビールだった。机の上は整頓されていて、空の皿が二枚。窓は閉まっていた。猫の姿は見えないが、いたずらしたのでどこかに隠れているのかもしれない。そう思って部屋を出て行こうとした。と、その時、孝之は洋服ダンスの下のほうに服のはしっこのようなものが挟まっているのに気がついた。

 猫が洋服ダンスに隠れるわけはない。空き巣狙いでも入ったのかもしれないと、孝之は自分の部屋に戻って野球のバットを持ってきた。

「おいっ、誰かいるのか? いるのなら出て来い」

 腰が引けながらも、勇気を奮い立たせて大声を出すが、返事はなく、誰も出てこない。

「出て来いっ! そこに隠れているのは分かっているんだぞっ!」

 何度声を掛けても、一向に出てくる気配がないので、『もしかして麻也が閉め損なっただけなのかな』と、安心したが、念の為にと、洋服ダンスの取っ手に手をかけた。押しても引いてもびくともしない。力ずくで引っ張ると、誰かが扉の向こう側から引っ張って綱引きでもしているように、扉がぶわぶわと動いた。

 こうなったら強気にでるしかない。思いっきり後ろに体重をかけて引くと、扉の蝶番が軋みをたて、扉についている取っ手が外れて、孝之は後ろにひっくり返った。

「こいつっ! 出て来いっ!」

 怒りと恐怖をぶつけるように孝之はバットで扉を叩いた。軋みをたてていた蝶番が外れ、扉は傾いて半開きになった。扉を引っ張り開けると、麻也の洋服が並んでいる。その下にしゃがんでいるような格好の二本の足が見えた。

 バットを構えなおし、洋服を分けると、怯えた表情の青年が、震えながら、防御するように両手を頭と顔の前にかざした。相手が弱そうなのでホッとして、孝之はさらに強気になった。

「おい、おまえ! 出て来いっ! 警察につきだしてやる!」

「いやだ。出て行かない」

「出て来いったら!」

「いやだ! 出て行かない!」

「空き巣狙いなんかするからだ。さっさと出て来いっ!」

「僕、空き巣狙いなんかしてないよ」

「なに? じゃあ、なんでそんな所に隠れているんだ?」

「まぁやが、人が部屋に入ってきたらここに隠れなさいって」

「え?」

 青年の言った言葉が理解できるまでに5秒ほどかかった。

「なんでおまえが麻也の事を知っているんだ? おまえ、一体誰なんだ?どうしてここにいるんだ? もしかしてストーカーなのか?」

「違うよ。僕はストーカーじゃないよ。ハンサムだよ。まぁやがここに入りなさいって言ったんだ」

「ふざけるな! 麻也がおまえに言った? 知り合いだっていうのか?」

「うん」

 流れが妙な方向に変わってきたので戸惑う孝之。

「おまえ、麻也とはどういう関係なんだ?」

「まぁやは僕の飼い主だよ」

「飼い主って、それ、どういう意味だ?」

「まぁやが僕を助けてくれて、それから一緒に住もうって」

「なんだって!? 一緒に住もうって麻也が言った?」

「うん」

「おまえ、名前は?」

「ハンサム」

「ふざけるなって言ったろ。名前は?」

「僕の名前はハンサムだよ。今は」

「今はって・・、本名じゃないのか?」

「ほんみょうって何?」

 ちょっと頭が弱いのか<