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2008年3月

ハンサム・ザ・キャット~愛の因数分解~ 〈12.プロポーズのABC その2〉

「猫の縫いぐるみは一つ六百円です。いくつ必要ですか?」

 ピエロのような格好をした設楽さんが、手に袋を幾つも抱えて話しかける。

「猫用の缶詰は二つで五百円よ。缶詰を五つと縫いぐるみを一つ買って、二千円出すと、お釣りはいくらになると思う?」

 設楽さんの横から麻也が顔を出して、僕に聞いた。

「えっと、缶詰は一個二百五十円だから、五個で千二百五十円で、縫いぐるみの六百円と合わせて千八百五十円。だから、お釣りは百五十円だね」

 と、僕が答える。

「良く出来たわね。キスしてあげましょう」

 僕が麻也とキスをしようとすると、尾之多君が麻也をプレゼントの袋に隠して、代わりに僕にキスをしようとした。慌てて、逃げようとすると、今度は蓮河さんが現れて、

「(a+b)の二乗を因数分解すると、友達でもプロポーズ出来るって知ってましたか?」

 そう言って、蓮河さんは麻也が入っている袋を取って走り出した。

「待って! 麻也を持っていかないで!」

 僕が追いかけようとすると、穣さんが現れて、

「月影、ダイビングすると、X=2Yの時、結婚は千年先になるぞ」

「え~っ!?」

 見ると、尾之多君と蓮河さんがXになって、穣さんはaの格好に、設楽さんはbになって、輪になって廻り出した。袋からこぼれた麻也を拾い上げると、僕の手のひらの上でYになってダンスを踊りだした。僕が麻也をそうっと机の上に戻そうとすると、お父さんの大きな顔がノートの中から現れて、言った。

「俺の目の黒いうちは許さんぞ」

 汗びっしょりで目を覚ますと、まだ夜だった。勉強しながらうとうと眠ってしまったらしい。丁度、ドアが開いて、麻也が入って来た。

「ハンサム、もう今日はお休みしない?」

「うん」

 僕は麻也のお兄さんの部屋から出て、麻也の部屋に戻る。麻也の部屋は狭くて机が一つしか置けないので、麻也の勉強が忙しい時は、麻也のお兄さんの机を借りて勉強している。麻也のお兄さんは遠い大学に行っていて、下宿生活をしているから、普段は家にいないんだ。

「明日はテストね。しっかり眠って備えましょう」

「うん。僕、頑張っていい点取ってくるよ」

 学校では、時々進度判定テストっていうのがあるんだ。勉強の方は中学校の内容になってきているのに、僕の進度判定はまだ小学校のレベルで、なかなか進まない。

 算数で、XとかYとか、aとかbっていうのが難しくて、お金の計算でどうしてお金じゃないものが出てくるのかよく分からなかったんだ。でも 、今日、変な夢を見たら、なんとなく分かるような気がしてきた。だけど、お父さんがノートから出てくるのはやめてほしいなぁ。

 クリスマスが来た。去年のクリスマスは、麻也と祐希の三人でクリスマスツリーを飾って、家でご馳走を作って、家族と一緒に食べた。七面鳥のかわりの鶏の丸焼きがとっても美味しかった。

 今年は蓮河さんの提案で、クリスマスパーティというものをする事になった。去年より飾りつけが華やかになって、ご馳走もたくさん作る事になった。みんなでプレゼント交換もするので、贈り物をたくさん用意した。 

 パーティには麻也の友達の森岡聡史君も飛び入りで参加する事になった。森岡君も麻也が好きらしい。なんだか、ライバルだらけのクリスマスパーティになりそうだ。

「麻也さん。尾之多君からクリスマスカードが届いていますよ。きっと、参加出来なくて残念に思っていることでしょうね」

 と、森岡君。僕は尾之多君がアメリカに行っていていないので、ちょっとホッとしている。パーティは麻也のお母さんやお父さん、祐希も参加して、賑やかに終わった。ライバルだらけだったけど、結構楽しかった。蓮河さんはみんなの気持ちを和ますのがとても得意らしい。

 パーティが終わって、麻也と一緒に森岡君を玄関から送り出す時になって、森岡君が小さな声でひそひそと話し出した。

「そういえば、尾之多君、ついこの間、おかしな事件に巻きこまれたらしいですよ」

「おかしな事件?」 と、麻也が聞く。

「これ、オフレコにしておいてほしいんですけど、どうもCIAが係わっているらしいです」

「CIA? 君、そんな事よく知ってるね」

 と、後ろから蓮河さんが現れた。

「あははは。ちょっとね。たいした事じゃないから。じゃあ、また」

 と、森岡君が帰りかけると、

「いいじゃありませんか。僕も仲間に入れてくださいよ。君だって麻也さんにプロポーズしたいくちでしょ? ライバルなら正々堂々としましょうよ」

「蓮河さんは友達なんでしょう?」 と、僕。

「あはははは。可能性の問題ですよ。それに、この間、月影君が拉致されかけたのと関係があるかもしれませんよ。と、すると、僕も、もう巻き込まれている可能性だってありますよ」

「えっ? そんな事があったんですか?」

「でも、あれ以来何も無いから、人違いだったのかもしれないし」 と、麻也。

「でも、一応知っておく資格はあると思いませんか?」

「そうかもしれません。でも、これ以上巻き込まれたくはないでしょう?」 と、森岡君。

「麻也さんに関係のある事ならどんな危険な事も知っておきたいんですよ。巻き込まれるのは先刻承知です」

「では、他言無用に願いますよ」

「分かっています」

「詳しくは教えてくれなかったんですけど、なんでも、〔月の石〕と関わりがあるらしいです。〔月の石〕って言うのは、今は全然聞かないけど、ちょっと前にインターネットの中で、一時話された事がある、願い事を叶える石の事なんですけど」

 麻也とハンサムは密かに目と目を合わせた。

「尾之多君は、その石の事を知っている人が、尾之多君の写真を持っていたとかで、彼も石の事を知っているのでは、と、疑われたらしいです。で、どうやら前の事件とも関係があるらしいから、注意しろって、暗号のメールをくれたんです。月影さんにも伝えておいてほしいって」

「前の事件と言うと、麻也さんの誘拐事件ですか?」

「そうです」

「と、いうと、誘拐事件にもCIAが係わっていた、という事になりますね」

「・・・。あなた、意外と鋭いですね」

「ふふっ。これでも外科医ですから」

 外科医とどう関係があるのか、僕にはどうもよく分からない。

「しかし、誘拐事件にCIAとは。FBIの方がまだ分かりますが」

「僕等にもそこら辺の真実はよく分からないんですよ。月影さんが迷子になった時、CIAの係わる事件に巻き込まれて、それで麻也さんまで巻き込まれたんですが、月影さん自身、何のために巻き込まれたのかよく分からないような状況ですから」

「ふ~ん、そうなんですか」

 と言って、蓮河さんは僕を見た。僕の脇の下に冷や汗が流れた。カプセルの事は秘密中の秘密だから、誰にも話さないようにと、尾之多君や矢城刑事さんに言われている。麻也は知っているけど、森岡君は知らないんだ。

「尾之多君という人は、誘拐事件とどういう関係だったのですか?」

「彼も麻也さんにプロポーズしたい一人だという事ですよ」

 森岡君があっさりと言った。

「そうなんですか? まだまだ何か隠し事だらけに見えますが」

「でも、知っておくべき事は言いましたよ」

「分かりました。ありがとう。僕も注意します。プロポーズのライバルがこれで三人になったという事ですね」

 ガーン!! 僕はそれを聞いて、また、頭の中が半分白くなった。でも、尾之多君は・・・。

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ハンサム・ザ・キャット~愛の因数分解~ 〈11.プロポーズのABC その1〉

 あれから、ハンサムを襲った相手は姿を現さなくなったが、ふたりとも警戒だけは怠らないよう注意し合っていた。

 そんなある日、学校から帰ると、ハンサムに荷物が届いていた。送り主の名前は書いてない。不気味に思ったハンサムは麻也に相談した。

「運送会社の名前もないわ。誰かが直接届けに来たのかしら。まさか、爆弾じゃないわよね」

 耳に当ててみても音はしないし、重さもさほど無い。母に聞くと、設楽という人が頼まれて届けに来たという。誰からとは言ってなかったらしい。

「でも、設楽さんは何も言ってなかったし、他の仲間も何も言ってなかったよ」

 おそるおそる静かに包みを解く。中からプレゼントのリボンのついた袋と文面だけの手紙が出てきた。

『月影へ。麻也に使ってもらう事』

「一体、誰からだろう?」

 ふたりは顔を見合わせた。

「わたしに使ってもらうって、どういう事なのかしら。もしかして、蓮河さん?」

「蓮河さんなら、どうして名前を書いてないの? それに、どうして僕宛なの?」

「さあ? もしかして、ハンサムのお友達みんなからのびっくりプレゼントなのかしら」

 そうっとプレゼントの袋を開けて見ると、出てきたのは、ふわふわの毛で出来た猫の縫いぐるみの様な寝巻きだった。

「僕が猫だったって事、誰も知らないはずだよね」

「ええ。そのはずよ」

 麻也が寝巻きを手にとって見る。何も異常なものは見当たらない。

「うふっ。可愛い!」

 ふわふわした着ぐるみのような寝巻きは、頬にすりすりすると、本当の猫のような感触で、気持ちがいい。

「これ、ハンサムがもらったのよね。わたし、気に入っちゃったわ。使ってもいいかしら?」

「麻也にって書いてあるし、いいよ」

「じゃあ、早速、今晩使ってみるわね」

 その夜、お風呂から出ると、麻也は猫ぐるみの寝巻きを着てハンサムに見せた。

「どう? わたし、猫になっちゃった。これ、わたしにピッタリよ」

 と、猫の仕草を真似てみる。

「ま、ま、麻也!!」

 ハンサムはドキッとした、どころではなかった。麻也のコスプレに近い猫ぐるみは、ハンサムの脳髄を直撃した。麻也の何も身につけていない姿よりも、刺激的に目に映ったのだ。お風呂に入ってもいないのに、動悸に襲われ始めるハンサム。

「今日はこれで寝るわ」

「えっ! そ、その格好で寝るの?」

「この寝巻き、とっても気持ちがいいわ。ハンサムが猫だった時、一緒に寝てた時みたい。ほら、来て、触ってみて」

 と、ベッドに寝ころんで腕を差し出す麻也。ハンサムは麻也の横に行って、震える手で麻也の腕を触ると、思わず麻也を抱きしめた。

「麻也!」

「ハンサム、大丈夫? 動悸が聞こえるわ」

「麻也、麻也、僕は、僕は、」

「?!」

 熱に浮かされたようなハンサムの目を見て、麻也は悟った。目を閉じて、腕を優しくハンサムの首に回す。ところが、それ以上何も起きないので、しばらくして目を開けてみる。

「ハンサム?」

 見ると、ハンサムは苦しそうに、

「僕は、僕は、麻也と・・」

「ええ。わたし、いいわよ。いいわよ、ハンサム」

「え? 僕、まだ何も言ってないよ」

「何も言わなくても分かるわ」

「えっ? 僕が麻也と結婚したいって事分かるの?」

「えっ? 結婚?」

「うん。僕、今、すごく麻也と結婚したい。指輪も買ったんだけど。でも、僕、まだ義務教育の勉強も終わっていないし、」

「勉強と結婚とどういう関係があるの?」

「お父さんが、一人前の人間にならないと結婚したらダメだって。一人前の人間になるためには義務教育を終えた方がいいって、お母さんが」

「ハンサム、お父さんやお母さんと結婚について話した事があるの?」

「うん。結婚はプロポーズをしてからするものだって、仲間に聞いたんだ。プロポーズするためには指輪がいるって。僕はその時、お金を持っていなかったから、お母さんに相談したら、お父さんが呼ばれてきて、それで、指輪を買う前に勉強を終わらせないといけない事になって」

「義務教育を終わらせたら結婚してもいいって、お父さんが言ったの?」

「お母さんがそのような事を言ってたんだけど」

「分かったわ。ハンサム。わたし、協力するわ」

「え? 協力?」

「わたし、ハンサムにプロポーズされたいの」

「本当?」

「だから、早く教育課程を卒業できるように勉強を手伝うわ」

 麻也は猫ぐるみを脱いで普段の寝巻きに着替えた。ハンサムが手続きを必要とするなら、わたしもそれまで待つわ。

 人間になって、社会生活を始めた頃、ハンサムは、文字や計算を覚える必要を感じて、麻也の弟の祐希に勉強を教えてもらっていた。夜間高校に通うようになってからも、日曜日等にいろいろ教えてもらったりしている。その上、これからは、学校から帰ってきてからも麻也と勉強する事になった。

 翌日、父や麻也や祐希が出かけた後、ハンサムが仕事に行こうとしていると、電話が掛かってきた。

「月影さんによ。国際電話だけど、相手は日本人みたいだから大丈夫ね?」

 出かける用意をしていた母が受話器を渡す。

「わたしはもう出るから、後、家の鍵、頼むわね」

 そう言っては母出て行った。国際電話って、一体誰なのだろう。ちょっと気構えて電話に出る。

「もしもし、月影です」

「荷物は届いたか?」

「えっ? 荷物って? あなたは誰?」

「僕だよ。博行だ。で、使ってみたか?」

「尾之多君! あの荷物は尾之多君が送ってくれたの?」

「そうだよ。設楽に頼んで届けさせたんだ。なんだか強力なライバルが現れたようだな。しかも二人の友達になったっていうじゃないか。ぼやぼやしていると麻也を取られちまうぞ。さっさとあれを使ってもらえ」

「あれって、あの寝巻き・・・?」

 夕べの事を思い出してちょっと胸がどきどきしてきた。もしかして、ああなる事を知っていた? でも、尾之多君は僕が猫だった事は知らないはずだけど。そういえば、前にも・・・。

「麻也の事だから大丈夫だとは思うが、蓮河は熱血漢だと聞いているからな。いつなんどき、麻也の心が動く可能性だってないとは限らない。そいつに横取りされるくらいなら、僕が横取りに入るぞ。分かったか?」

「わ、分かった。でも、どうして送り主の名前を書かなかったの?」

「僕が送った事が分かると、麻也が使わないかもしれないからな。内緒にしとけよ。でないと・・」

「わ、分かった。分かったから、その先は言わなくていいよ」

「よし。さっさとプロポーズしてしまえ。今なら麻也だってOK出すだろう」

「で、でも、その前に、麻也の両親に認めてもらわないと」

「バカ! そんな事を待っていたら千年先になるぞ。あれを麻也が使えば解決するだろうが」

「使ってくれたけど・・」

「何っ? それでも、何も感じなかったのか?」

「ううん。そうじゃないけど。とにかく、麻也と一緒に勉強する事になったから」

「ったく、そんな事をしている間に蓮河がプロポーズしたらどうする気だ?」

「麻也は僕にプロポーズしてほしいって言ってたから、大丈夫と思う」

「麻也がそう言ったんだな?」

「うん。それで、僕がプロポーズ出来るようにするために、勉強を手伝ってくれる事になったんだ」

「・・・ふぅっ。そうか。じゃ、とにかくがんばれよ」

 ふぅっ。ハンサムも同じように大きなため息をはいた。

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ハンサム・ザ・キャット~愛の因数分解~ 〈10.恋愛と結婚のABC その2〉

 プレゼントを送り返されたにも係わらず、蓮河は日曜日の空いた時間などにやって来て、父や母と談笑していくようになった。もちろん、麻也は出てこない。それでもめげずに通う蓮河であった。

 その日、ハンサムは学校からの帰り道、蓮河に肩をたたかれた。

「月影君」

「あ、蓮河さん」

「今、学校から帰る所ですか? 一緒に行ってもいいですか?」

「構いませんけど。何か用事ですか?」

「いや、実は、先日、君の仕事場を訪ねた時、失礼な事を言ってしまった事が分かったものですから。謝ろうと思って」

「どんな事?」

「君が結婚の事を考えてもいないのは許せないと言ったけど、失言でした。すみませんでした。お母さんからいろいろ聞いたんですよ。お父さんに認めてもらうために夜間高校に通っていると聞きました。君も大変なんですね。記憶喪失で、義務教育も受けていないような環境で育ったらしいというのは本当なんですか?」

「あ、それは、まあ、よくは分からないけど、そういう事らしいです」

 人間として生きていくためには、猫だった過去を秘密にする必要があるという事も分かっている。

「麻也さんは優しい人だから、君の生い立ちに同情もしているんだろうな。ちょっと羨ましいな」

「蓮河さんが僕を羨ましいんですか?」

 仲間からライバルの方が勝っていると聞いていたハンサムは、ちょっと驚いて聞いた。

「そりゃ、当たり前ですよ、君。君は現在、麻也さんと同棲もしているんだし、僕は君を理由にお付き合いを断られてしまったんですからね。もちろん、まだ、完全に諦めた訳じゃありませんよ。麻也さんはきっちりとした人だから、同時に二人と付き合う事はしないだろうけど、恋愛と結婚は別という考え方もありますからね」

「恋愛と結婚は別という考え方って、どんな風ですか?」

「お互い好きになって恋愛するのは自由だけど、結婚となると、生涯を共にするためのパートナーだから、選ぶ基準が少し違うっていう考え方ですよ。一生は楽しい事ばかりではありませんからね。それに、子供を育てる為にはある程度の生活力も必要でしょう。結婚には社会的責任が伴うって考え方もあるし」

「社会的な責任って、どういう事を指すんですか?」

「あははは。まるで生徒みたいですね、君は。質問ばかりして」

「すみません」

「いや、構いませんよ。結婚して所帯を持つという事は、一人前になって社会の構成員になるという意味合いがあるという考え方です。ちょっと古い時代の考え方ですけどね。結婚は個人の自由だから、結婚や離婚をするのも、結婚しないのも自由というのが、今の考え方かな。僕は両方の考え方とも認めている方です」

 ハンサムは感心しながら蓮河の言う事を聞いていた。若いのに穣さんのようにいろんな事を知っていて、しかも少しも嫌味じゃない。でも、人間の結婚って、ホントに複雑なんだなぁ。

 話しながら二人で歩く歩道に、車が横付けされた。車から二人の人間が降りてきて、ハンサムに声をかける。

「ちょっとお付き合い願えませんか?」

 二人で横から挟むように、有無を言わせないような雰囲気に、ハンサムは昔の事件を思い出した。

「誰? CIAの人?」

「とにかく乗って下さい。話は中で」

 言葉は丁寧でも強引に引っ張ろうとするので、ハンサムは危険を感じて、振り払って逃げようとした。蓮河も助け舟を出そうとした。

「ちょっと、君達。嫌がっているじゃないか。止めなさい」

 揉み合いになった。すると、車から出てきた人間の一人が、懐から銃を取り出して蓮河に向けた。

「邪魔をするな」

 手を挙げて後ずさりする蓮河。それを見たハンサムは、いきなり猫キックをその人間の銃を持った手に浴びせると、引っ掻き攻撃を横っ面に加えた。銃は遠くに吹っ飛び、その人間は顔を抑えて怯む。怯んだ隙に猫パンチの一撃を入れると、うずくまるように倒れた。

 ハンサムはくるっと回れ右をして、もう一人の脇腹にキックを入れる。頭部に猫パンチのダブルを加えると、その一人も倒れこんだ。

「早く逃げよう」

 蓮河の腕を引っ張って、ハンサムのスピードに追いつけず転びそうになる蓮河を励まして、その場から走り去る。彼らは追って来ないようだった。

「あいつらは一体何者なんですか?」

 息を切らしながら蓮河が尋ねる。

「僕にも分からないよ」

「銃を持っていたけど、強盗でもなさそうだし。CIAって、あのCIAなんですか?」

「分からない。違うかもしれない」

「君は一体何者なんですか?」

「僕は僕だよ。今度は蓮河さんの方が質問ばかりしているね」

「ああ、はははは。ホントだ。でも、すごい技でしたよ。もしかしてどこかの諜報部員でもしていたとか?」

「ううん、違うよ。本を読んだんだ。マーシャなんとかいう本。自己流なんだけど」

 尾之多博行にもらった本は一冊は結婚生活に関する本で、もう一冊が武道の本だった。

「マーシャルアーツですね。しかし、誰とも知れない人達に狙われるなんて。そう言えば、前に麻也さんが誘拐された事件がありましたね。金目的の誘拐集団だったという事でしたが、もしかして、君が原因だったのでは?」

「それは・・・、違うと思うけど」

 カプセル事件の事は秘密になっているから言う事は出来ない。少し言いよどむハンサムの様子を見て、蓮河は密かに思った。これは、やっぱり、麻也さんを譲れないぞ。麻也さんを危険な目に遭わせるわけにはいかない。

 家に帰ってくると、ハンサムは今日の出来事を麻也に相談した。

「CIAの人ではなかったのね?」

「うん。たぶん。CIAの人ならそう言うと思う。矢城刑事さんに言った方がいいのかな?」

「でも、言えば蓮河さんを巻き込んでしまうかもしれないわ」

「尾之多君が、誰にも言えない様な事が起きたら、設楽さんに相談しろって、言ってたけど、どうしよう?」

「そうね。でも、あの事件が終わってからもう一年半近くも経っているから、関係ないかもしれないわ。人違いだといいんだけど。少し様子を見て、今度何かあったら必ず警察に言うようにしましょう」

「今度は警察は味方なんだね?」

「そうよ。もう何もなければいいんだけど。何かあったらすぐに連絡し合えるように、携帯電話のスイッチは必ず入れておくようにしましょうね。それから、ハンサムもこれを持っていて」

 麻也は痴漢除けスプレーを手渡した。

「やあ、麻也さん。月影君を待っているんですね」

 麻也が駅で、電車の時間差待ちデートでハンサムを待っていると、蓮河が手を振ってやってきた。

「よくご存知ですね」

「邪魔するつもりはありません。恋人の付き合いがダメなら、友達としてお付き合いしていただけたらと思って。いけませんか?」

「いえ、でも・・・」

「あっ、月影君」

 ハンサムが電車を降りて走ってくる。

「今、麻也さんに友達としてお付き合いしてもらうようお願いしている所なんですよ。友達なら、月影君も構わないでしょう?」

 ハンサムと麻也が顔を見合わせる。

「いいじゃないですか、三人で友達になれば。僕は無理に麻也さんを取ったりしませんよ」

「あの、でも、またこの間のような事があるといけないし・・」

「僕は気にしません。それに、実は、僕も少しは腕に覚えがあるんですよ。この間は突然の銃でしたから怯みましたけどね。これでも柔道は黒帯ですよ。月影君の腕があれば、強盗も痴漢も形無しだし、麻也さんの剣道と、三人合わせたら怖いもの無しだと思いませんか?」

 それでも、渋って顔を見合わせる二人の肩を陽気にたたいて、

「友達ですよ。友達。意地悪しっこなしですよ」

 と、強引に友達になってしまった。そうして、時々、麻也の家に来ては、三人で、あるいは親も交えて、お茶を飲んだり、話をしたりするようになってしまったのだった。

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ハンサム・ザ・キャット~愛の因数分解~ 〈9.恋愛と結婚のABC その1〉

「おい、月影のライバルが現れたようだぞ」

「なんだって? 一体どんな奴だ?」

 お弁当を食べる手が止まったままのハンサムと、しばらく話していた蓮河が去って行くと、遠巻きに様子を窺っていた興味津々の仲間達がやってくる。

「おい、何だって? あいつ、何と言ったんだ?」

「麻也と結婚したいんだって」

「で、お前はどう言ったんだい?」

「何も言うひまが無かった」

「あちゃ~。麻也ちゃんはあいつの事をなんと言っているんだ?」

「何も言ってなかった」

「おい、この名刺見ろよ」

「え~っ。相手は大学のお医者さんかよ」

「しかも男前も良かったしな。こりゃあ強敵だな」

「僕、どうしよう。今晩、家に来るって」

「いや、いや、大丈夫だよ。きっと麻也ちゃんはお前の事が好きだから」

「そうだよ。恋のライバルなんかガツンと言ってやらなくちゃ」

「ガツンと?」

「麻也は僕の物だって言ってやれ」

「でも、麻也は人間だよ。物じゃないよ」

「じゃあ、麻也に近づくなっ、とでも言ってやれば?」

本当に近づかなくなる?」

「やれやれ、心細いねぇ。勢いでもう負けてるよ」

 不安なハンサムを襲うがごとく、夜がやってきた。

 予め電話連絡済の蓮河が到着すると、麻也の父と母が迎えに出た。応接間で、自己紹介する蓮河と名刺を交し合う父の様子を、台所のほうから覗き見るハンサム。いかにも嬉しそうに蓮河と話をする父と母の様子が、ハンサムの不安をかき立てる。

 麻也は今日はサークルで剣道の稽古があるから遅くなると言っていた。蓮河が来るというので、ハンサムは夜間の学校を休んだのだが、何もしていないと気分が変になりそうなので、台所でひとりおかずの煮干のキンピラを作っていた。

 父と母が機嫌良く蓮河を送り出そうとする時になって、後ろの方からそうっと出てきた。すると、蓮河が気がついて言った。

「月影君。ご両親は僕が麻也さんと付き合うのを許してくれましたよ。お互いに正々堂々と頑張りましょう」

 そして、ハンサムと握手して、笑顔で帰って行った。

 麻也が帰ってくるのを待ちかねたように、父は声を掛けた。

「麻也。今日、蓮河さんがみえたよ」

「えっ? 蓮河さんが?」

「知らなかったよ。あんないい人に付き合いを申し込まれているなんて。どうしてすぐにお受けしないんだ?」

「そんな事を?」

 麻也が振り向いてハンサムの方を見ると、不安で一杯になっているハンサムの目にぶつかった。

「わたし、すぐにお断りしたかったの。でも、どうしても、少しでいいから考えて下さいって言われて、返事を延ばしただけなの。本当に後でお断りするつもりだったの」

「断る理由なんかないじゃないか。将来性のある立派な青年だ。良い家庭ができるぞ」

「お父さん。わたしとハンサムの気持ちも考えてね。わたしがハンサムを好きな事知ってるでしょ」

「恋愛と結婚は別物だよ。麻也、考えても見なさい。月影と蓮河さんでは月とすっぽんだよ。お前のような娘は、月影には、猫に小判、豚に真珠だ。蓮河さんのような人こそお似合いだよ」

「お父さん、この話はもう言わないで! ハンサム、行きましょ」

 麻也はハンサムを引っ張って、二階の自分達の部屋に連れて行った。

「麻也。麻也は小判なの? 小判ってどんな事?」

「お父さんの言う事なんか気にしないで。ハンサム。わたし、蓮河さんとは勉強を教えていただく先生と生徒の関係なのよ。断りにくかったから、お返事をちょっと延ばしただけなの。その事を言わなかったのは、わたしが悪かったわ。でも、わたしはハンサムが大好きなの。忘れないで! いい?」

「うん。僕も麻也が大好きだよ」

「じゃあ、キスして」

 麻也とキスをして、少し落ち着くハンサム。

「明日、お断りしに行くわ」

「うん」

 翌日、麻也が会いに行くと、蓮河は嬉しそうに出迎えた。

「麻也さん。よく来てくださいました。どうぞ、ここへおかけ下さい」

「いいえ。すぐに帰りますから」

「夕べの事をご両親からお聞きになっておられないのですか? ご両親は僕が貴女と付き合うことを喜んでくれていましたよ」

「蓮河さん。わたし、やっぱりお返事を延ばすべきではありませんでした。あんな風になさるとは思ってもみなかったんです」

「どうしてですか? お付き合いする前にご両親にお話してもおかしくないでしょう? 返事は前にも言ったとおり、ゆっくりで構いません」

「いいえ。今、はっきりとお断りします」

「ちょっと待って下さい。月影君に気を使っておられるんでしょうが、2年も同棲しているのに結婚の事を考えていないなんて、遊びとしか思えませんよ。僕は本気で麻也さんと結婚したいと考えているんです。だからこそ、正々堂々とご両親に挨拶に行ったのですよ」

「わたし達にはわたし達の事情があるのです」

「どんな事情なのですか?」

「ふたりの間の事ですからお話できません。ごめんなさい」

「麻也さん!」

 蓮河が制止しようとするのを振り切って麻也は部屋を出た。

「そうか。麻也ちゃんの親はライバルびいきなんだな。まぁ、無理もないが」

「おい、そんな物言いはないだろ。肝心の麻也ちゃんが月影を好きなんだから、大丈夫さ。な、月影」

 お昼休みに、ハンサムの仲間達が結婚話に花を咲かせる。

「でも、容姿は互角だけど、学歴や将来性で完全に負けてるもんな。おまけに親もあっちの味方だろ。前途多難だよ」

「あのぅ、猫に小判とか、豚に真珠ってどういう意味?」

「あちゃ~。そりゃ言っちゃいけない禁句だよ。恋愛にそんなのカンケーねぇ!」

「月とすっぽんとかも言われたんじゃねぇの?」

「うん。どういう意味?」

「つまり、ライバルの方が勝ってるって事さ。でも、麻也ちゃんが月影の方が良いと言うんだから問題ないさ」

「そう、そう、そうだよ。がんばれよ」

「うん。ありがとう」

 麻也の二十歳の誕生日がやってきた。ハンサムは前にもらったお金の残りで、できるだけ豪華な花束とケーキを買った。

 家に帰ってくると、ハンサムが買ってきたのよりもさらに豪華な花束と大きなプレゼントの包みが届いていた。送り主はもちろん蓮河だ。

「麻也。どうしてこの花束放っておくの? 折角、蓮河さんが送ってくださったのに」

「プレゼントは後で送り返すつもりよ」

「そんな事、失礼でしょ」

「でも、わたし、蓮河さんにはきちんとお断りしたんですもの。頂くいわれがないわ」

「麻也! 少しはお父さんに言われた事も考えてほしいわ」

「ハンサムが帰ってきたら、ふたりの仲を認めるって言ったのはお父さんよ」

「でもね、恋愛と結婚は違うでしょ」

「ふたりの事はふたりに任せるって言ったのはお母さんよ。それにわたし、もう二十歳よ。自分の事は自分で決めるわ」

 ひとり、ため息をつく母だった。

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ハンサム・ザ・キャット~愛の因数分解~ 〈8.恋のABC その2〉

 ハンサムはずっと前に麻也と一緒にお風呂に入った時の楽しかった事を思い出して、ワクワクしていた。初めて自分で買ったオモチャで麻也と一緒に遊ぶ事しか考えていないため、麻也と一緒にお風呂に入るのは、人間になってから初めてだという事に思い至らなかった。

 人間になってからしばらくは、麻也の弟の祐希と一緒にお風呂に入っていたのだが、今では祐希も中学生になり、塾や部活で時間がずれたりする事もあって、最近ではずっと一人で入っていた。一人遊びも楽しいが、麻也と遊べるのならそれが一番楽しい事に違いない。

 先に入っていてと言われて、先に入って、湯船でオモチャを浮かべて遊んでいると、麻也がタオルで体を覆うようにして入って来た。

「ねぇねぇ、これ見て」

 ハンサムは麻也の方を見もしないで、オモチャを指してみせる。カエルの口から魚の形をした餌を引っ張ると、つながっている紐が巻かれて、カチャカチャとカエルが泳ぎながら餌を追いかける。ぱっくりと魚を飲み込むと止まる仕掛けになっている。

 止まった所で笑って、麻也の方を見たハンサムはドキッとした。なんだか、いつもの麻也と違う。まるで・・・。

 ハンサムは、麻也の何も着ていない姿を見たのは、人間になってから初めてだという事に気がついた。猫だった時は気にも留めなかったのに。

 麻也はカエルを見て微笑むと、背中を向けてシャワーで体を洗いはじめた。その後姿から目が離せなくなってしまったハンサム。次第に動悸が高まってくるのを感じてめまいがしてきた。麻也がこちらを向いたとたん、うつむいて目を逸らすと、カエルを握りしめた。

「もう一度やってみて」

 麻也が湯船のふちに両腕を置いて、その上に顔を乗せるようにして言う。カエルがぱっくりとする所で麻也がふふっと笑うと、ハンサムも少し落ち着いて笑った。

「こんなのもあるんだよ」

 真っ赤なタコが八本の足をくるくると回しながら浮き沈みをする。イルカが手ビレと尾ビレを使って、潜水したり、浮き上がって湯を吹いたりする。吹いた湯が顔にかかる。ふたりして笑いあった。

「ね、わたしも入るからちょっと向こう向いててくれる?」

 麻也に言われるとおり顔を背ける。それほど大きくない湯船に二人は窮屈で、足と足が触れ合う。麻也の分の余分な体積だけ湯が溢れて、浮かんでいたカエルが湯と一緒に流れ落ちかけた。腕を伸ばして取ろうとして、麻也の白い胸がちらと見えた。ハンサムはまたもや動悸に襲われはじめた。

 麻也を見ないよう、オモチャで遊ぶ事だけに集中しようとする。が、オモチャがハンサムの胸にぶつかったのを、麻也が取ろうとして、麻也の手がハンサムの胸に触れる。あわてて麻也の手を離そうとして、麻也の手をつかんでしまった手が震える。

「どうしたの? ハンサム?」

 ハンサムの震える手を麻也が両手で握って、顔を覗き見る。目と目が合って、ハンサムは顔が真っ赤になった。どんどん動悸が高じてきて、頭がぼ~ッとしてくる。胸が苦しくなって息をするのも苦しくなってきた。

「麻也・・・、僕・・・、もうダメ」

 意識が遠のくのを感じながら、ハンサムは思った。お父さんが何か文句を言ってたのはこうなる事を知っていたからかもしれない、と。

「お医者さんを呼ばなくて大丈夫?」

「先に入っていたから、湯あたりでもしたのかもしれないわ。脈も戻ってきたようだから、きっと大丈夫だと思う」

 ハンサムが気がつくと、ベッドに寝かされていて、麻也と母が覗き込むように見ていた。麻也がハンサムの手をとって、脈を診ている。慌てて手を振りほどこうとして、麻也がいつもの寝巻きを着ているのを見て、ホッとする。いつもの麻也だ。良かった。

 麻也の大冒険は終わった。結局、いつもと変わらない生活だったが、ハンサムに人間としての進歩をもたらしたらしい。湯あたり事件以来、ハンサムはお風呂の話になると、少し様子がおかしくなって、麻也をお風呂に誘おうとしなくなったのだ。麻也は嬉しいような、ちょっぴり残念なような気がしている自分自身に気がついて、ひとり赤くなった。

 そんなある日、麻也は学校の実習で、大学の先輩の蓮河に出会った。蓮河は大学の研究室に身を置きながら、外科の診察もしていた。6歳年上の落ち着いた雰囲気を持った蓮河の、正義感と熱意に溢れた所に、麻也は尊敬の眼差しを向けた。

 蓮河郁雄は実習にやってきた医師の卵のうちのひとり、幸坂麻也の、キリッとした気迫の美と純粋な正義感に裏打ちされた誠実さに惹かれた。

 そして、麻也はある日、蓮河から映画に誘われた。ハンサムがいる事を理由に断ると、

「貴方が誰かと付き合っているという噂は聞いています。もう婚約されているのですか?」

「いいえ。そういう訳ではないのですが・・」

「そう、良かった。僕は出会った時から貴方に惹かれて、今は真剣に、結婚を前提としたお付き合いをしたいと望んでいます。もし良ければ、付き合ってもらえませんか?」

「わたし、彼と将来を共にするつもりでいます。ですから、」

「でも、まだ婚約はしていないのでしょう? 今すぐというのでなくていいんです。僕も将来を共にする候補の一人として考えてもらえませんか? 返事はゆっくり考えてもらってからで構いません。お願いですから今すぐにダメだなんて言わないで下さい。貴女の事が好きなんです。ずっと待っていますから。考えるだけでも構いませんから」

 正直言って、麻也はホンのちょっと揺れ動いた。尊敬する先輩からの、熱烈な、殆ど求婚に近い申し出なのだ。もしもハンサムに出会っていなければ、きっと受けていただろう。相手が蓮河なら皆に祝福されて結婚できるだろうし。でも、麻也は心の底でハンサムとの将来を決めていた。

「分かりました。今すぐの返事は保留します。でも、期待はしないで下さいね」

 送ってくれるという蓮河の申し出を丁重に断ってひとり帰ろうとしたが、蓮河は同道だからと言って、駅まで付いて来た。電車も途中の駅まで同じだった。指導する立場とされる立場の間柄でもあり、無下に断るわけにもいかず、時が解決するものと麻也は考えた。

「おい、月影。お前に会いたい人が来ているんだそうだ」

「僕に会いたい人?」

 仕事が一段落した昼休み、食事をしようとしていたハンサムは事務所の方に呼ばれた。事務所の方に歩いていくと、途中で背広姿の爽やかそうな青年に呼び止められた。

「あなたが月影ハンサムさん?」

「はい。そうですが。あなたが僕に会いたい人?」

「そうです。蓮河郁雄といいます。こういう者です。はじめまして。よろしく」 

 差し出された名刺を受け取り、握手する。

「今、お昼休みでしょう? ちょっと、僕と付き合っていただけませんか?」

「あの、僕、お昼のお弁当を食べたいんですけど」

「お弁当はどちらで食べるのですか? よかったら食べながらでもご一緒しても構いませんか?」

 蓮河は近くの公園のベンチまで付いて来た。

「おいしそうなお弁当ですね。麻也さんが作ったのですね」

「そうだよ。あなたは麻也を知ってるの?」

「ええ。この間、お付き合いを申し込みました」

「えっ?!」

「でも、君がいるからと言って断られそうになりました。一応考えてもらうようお願いしましたが」

 ハンサムは食べる手を止めて、真っ直ぐに蓮河を見た。

「君は麻也さんと二年も同棲されているそうですね。まだ婚約をしていないと聞きましたが、本気のお付き合いではないのですか?」

「僕は麻也が本当に好きだよ。でも、まだ結婚する時期じゃないと思って」

「今は時期じゃないと言って、結婚から逃げているのではありませんか?」

「そんな、僕は、だって・・・、」

 ハンサムの煮え切らないように見える様子に蓮河は、

「そんないい加減な付き合い方をするのは、僕は許せないな。僕は真剣に麻也さんを愛しています。すぐにでも結婚したいと考えています。今夜、麻也さんのご両親に挨拶に伺うつもりです。突然ではフェアではないと思って、君にお知らせに来たんです。では今夜また。失礼します」

 そう言うと、軽く礼をして、蓮河は立ち去っていった。

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ハンサム・ザ・キャット~愛の因数分解~ 〈7.恋のABC その1〉

 高いビルの建築現場。9階の足場で働いていた大野冶時は、はめていた腕時計の留め金が外れそうになっているのに気づいた。しっかり留めようとして、手が震えた。

「あっ、しまった」

 腕時計は滑り落ちた。足場の角で跳ね飛び、運悪く工事現場の外側に張ってある防護網の隙間から外に飛び出して、はるか地面へと落下する。

 と、7階の網の隙間から人が飛び出した。空中で時計をつかむと、くるりくるりと回転しながら飛び降り、無事地面に着地した。見ている者が口を開いたまま、叫ぶ間もない程の短い時間の出来事だった。

「月影! 大丈夫か?」

 下で見ていた現場監督の木下が駆け寄る。

「はい。大丈夫です。これ、大野さんの時計でしょ。先代の形見だって言ってた」

「それはいいけどな。もう、ダイビングはやってくれるなよ。肝が縮む」

「はい、すみません」

「いやあ、すまん、すまん」

 大野がエレベータ-で降りてきてハンサムの方にやってくる。

「どうも、夕べ飲みすぎたようでな。手が震えちまって。すまなかったな」

「あんまり飲んじゃダメだよ。過ぎるとお酒も毒になるって、穣さんも言ってたよ」

「分かっちゃいるがな。この歳になると、これしか楽しみがなくてな」

 作業が終わって帰り支度の着替え場所。

「これで二度目だな。最初はホントにびっくりして腰が抜けたぞ」

「そう、そう。前世が猫だってのは本当だと思ったね」

「あの時はお前のお蔭で命拾いしたよ」

「月影が助けてくれなかったら、大怪我どころじゃなかったな」

「僕、役に立って嬉しいです」

 ヘルメットを外すと、長い黒髪が中からはらりと落ちる。

「そういや、一年と少しくらい前に、遊園地で子供を助けた長い髪の男の話があったな。あれ、もしかすると、月影、お前じゃないのか?」

 ハンサムは肯定も否定もせずに笑う。時折猫だった時の記憶が出たりするのを、前世の記憶という事で、冗談半分にみせて切り抜ける事を覚えた。

「お~い。給金が出たぞ!」

 みんなで列に並んで受け取りに行く。

「月影、ちょっと」

 帰りがけに工務店長の佐野が呼び止め、茶色の封筒を差し出した。

「これは俺からだ。とっときな」

「え?」

「いつぞやのお礼だよ。お蔭で事故にならず、本当に助かったからな。でも、ダイビングするのはどうしても必要な時だけにしてくれよ。他の所に知れても困るからな」

「はい。そうします」

「君、給料は全部麻也ちゃんの母親に渡しているんだってな。これは君が自分のために使いなさい。麻也ちゃんにプレゼントでも買ってあげてもいいしな」

「有り難うございます」

 ハンサムは封筒を受け取って仕事場を後にした。

 麻也にプレゼントってどんな物がいいのかな、と、思案しながら帰り道を歩いていると、遠くから太鼓の音色が聞こえてきた。どこかで祭りをやっているらしい。麻也と一緒に行った夏祭りを思い出した。

 今日は夜間高校はお休みの日だ。ちょっと寄り道していこう。何かいい物が見つかるかもしれない。音のする方へ向う。神社の境内で提灯に火が灯され、屋台が出て、太鼓の音も賑やかに、祭りが催されていた。

 屋台を見て歩くうちに、ハンサムはオモチャがいっぱい売られている屋台を見つけた。小さなビニールのプールに水遊びのオモチャがいろいろ浮いている。ハンサムは、麻也と一緒にお風呂に入った時の事を思い出した。最近あのヒヨコで遊んでないけど、あれは楽しかったな。このオモチャも面白そう。

 アクセサリ-が並んだ屋台の中を見たハンサムは、その中で指輪を見つけた。安物だが良く出来ていて、キラキラと七色に光ってとても綺麗に見える。麻也は特別に好きな宝石はないと言っていたっけ。夜間高校を卒業するのはまだまだ先になりそうだけど、折角のチャンスだ。一番綺麗に見える指輪を買うことにした。麻也は気に入ってくれるかな。

「ただいま」 と、家に帰ると、

「おかえりなさい」 と、麻也が出迎えた。

 台所にいる麻也の母に給料袋を渡すと、麻也に声をかけた。

「ねぇ、麻也。今日、一緒にお風呂に入らない?」

「なんだとっ!」

 珍しく夕食の時間に食卓に座って新聞を読んでいた麻也の父が、新聞を下げてハンサムを睨んだ。

「俺の家でそんなふしだらな事はさせん! 俺の目の黒いうちは許さんぞ!」

 ハンサムはタジタジとなって言葉も出ない。そこへ、母親が振り向いて言った。

「まあまあ、あなた。もう二年も一緒に生活しているのに。わたしだって、若い時みたいに、たまにはあなたと一緒にお風呂に入りたいわ」

「な、何をバカな事を言う!」

 父は真っ赤になって新聞で顔を隠した。

「ねぇ、どうして急にわたしと一緒に入りたいって思ったの?」

 父に聞こえない所で麻也が聞く。

「今日ね、工務店長さんがお給料とは別にお金をくれたんだ。自分のために使いなさいって。それで、帰りがけにね、白魂神社でお祭りをしていたから、ちょっと寄ってきたの。そこで面白そうなオモチャをいっぱい売ってたから買ってきたんだ。お風呂で遊べるのを。ずっと前に、麻也と一緒に入った時遊んだ事を思い出して、一緒に遊びたかっただけなんだけど、何がいけなかったのかな?」

 麻也はちょっと答えに窮した。

 幸坂麻也は19才。大学の医学部の二年生。二年位前、ひとりぼっちの寂しさに、〔月の石〕の不思議な力で、拾った猫を人間に変える望みを叶えてもらった。

 今は人間となって麻也の恋人同然のハンサムと共に、表向き、半親公認の自宅同棲生活をしている。

 同棲生活というと、恋のABCはクリアされている、という理解をしている者が殆どであるが、麻也の場合、ハンサムが半猫人間の意識を引きずっているためなのか、Aのキスまでに留まっていた。元猫のハンサムと普通の人間同士の恋人のようになるのは、何時になるか分からないけれど、それは急いでも仕方がない事だと、麻也は考えていた。一緒に生活するだけで満足している麻也だった。

 いきなり一緒にお風呂に入ろうと言われて、麻也はドキッとし、考えた。確かに猫だった時は一緒に入っていてなんとも思わなかったが、人間の体になってからは、やはり抵抗があって、入った事はなかった。でも、もしかしたら、ハンサムの意識がどの程度かわってきているのか知る事が出来るかもしれない。

 しかし、もうすぐ二十歳になる今の麻也にとっても。一大冒険である事に変わりはない。心が揺れていた。

 すると、そこへ母がやって来て、ハンサムにささやいた。

「今日はやめた方がいいけど、明日はお父さん出張で留守だし、明日入る事になさいな」

 ハンサムが喜んで言う。

「明日なら一緒に入ってもいいんだって。良かったね麻也」

「・・・」

 麻也の決心を待たずに進んでいく事態を黙認する形になった。

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ハンサム・ザ・キャット~愛の因数分解~ 〈6.秘密のABC その2〉

 父を早くに亡くし、母一人子一人で育った神那崎樹菜が結婚したのは、博行に出会う二年前。海外のリゾート地で出会ったディック・クレインは南米系のアメリカ人だった。それまでに出会ったどんな男よりも情熱的で、溺れる様な一年間の恋の末に結婚した。

 結婚してから知った事だが、表向き商社マンのディックは、実は秘密諜報部員という裏の顔を持っていた。

 仕事の為に世界中を駆けずり回る夫と、殆どの時間離れて暮らすような結婚生活にも満足していられるのは、あの燃えつくしてしまったようなめくるめく一年間が存在するせいだけではなかった。日本国籍のまま結婚した樹菜は、派遣秘書の仕事をしていたが、彼女もまた、ディックと同じような秘密組織の一員だったのだ。

 〔梯子転倒事件〕以来、時折、博行は樹菜の家を訪ねてくるようになった。日曜日の午後、話すともなく、庭の木の花を見ながら二人でお茶を飲む。

 樹菜には分かっていた。それが博行の生活にとっての休息になっている事。自分にとってもひとときの安らぎの時間になっている事。そこから導き出される近い未来を感じていた。

 年のわりに大人びた心と体を持っているとは言っても、十才以上も年下の少年相手に恋に落ちる事は、樹菜の想像を超えていた。だが、恋の前には人間の作った約束事や、時間や空間さえも無意味であると、樹菜は感じた。

 樹菜の熱烈な想いに、博行は、戸惑いながらも、次第に恋の波に飲み込まれていく。

 ディックと出会って過ごした一年間のような恋に、二度と出会えるとは思ってもいなかった樹菜だったが、再びその手の中に落ちたと、喜びに心を震わせた。

 ディックの帰宅によって、その燃えるような三ヶ月間の恋に終止符が打たれた。

 花束を持って訪れた博行にディックを紹介する樹菜。ディックが席を外すと、

「素敵な恋だったわ。終わりにするのは惜しいけれど、どんな事にもいつか終わりが来るものだから。これからは素敵な友達でいられるといいわね」

 それ以来、二人の仲は親しい友人となり、二度と戻る事はなかった。共有する二人の秘密は、樹菜の中に芽生えたもう一つの樹菜だけの秘密と共に、封印された。

 母子家庭で育った博行は、9才の時、母親を亡くした。後見人となった、母親のたった一人の親戚筋に当たる人物は、父親の知れない博行を厳格に育てようとした。愛情よりは世間体を重んじる人物だった。

 その人物の妻にあたる女性は、自分の子供より博行が優秀な人間になる事を潔しとしなかったため、博行はその人物の家庭の中で、矛盾に相当する苦労を強いられる事になった。

 12才の時、父親が判明した。事故で亡くなった父親の残していた書類の中から、認知書と、万が一の場合の遺書が見つかったのだ。

 引き取られた先でも、本妻に子供が二人。快く受け入れられた訳ではなかった。愛人との忘れ形見に用意されたのは、表向き実子の容認と、邪魔者に対する冷徹な扱いだった。

「わしは、お前の母親を知っておる。優しいが芯の強い女性だった。秀行は彼女を心から愛しておったのだな。まさか、万が一の時の準備までして、一人で子供を育てるのを容認していたとは知らなかった。知っておったら、あのように無下に引き離すのではなかったと、後悔しておる」

 策を労して息子の不祥事をもみ消した祖父だったが、後悔の言葉に、祖父だけには少しだけ心を開く博行であった。

 樹菜との出会いは、危険含みの事件がきっかけだった。中学生や高校生を暴力に引き込もうとする集団の、丁々発止の駆け引きに、博行は巻き込まれた。博行が某有名企業関係の家の愛人の子である事を将来的に利用しようとする輩がいたのだ。

 結果、博行は裏の世界の仕組みを知る事となり、中高生の裏の暴力関係者には名前を知られ、一目置かれる事になった。が、表向き、裏の世界とのつながりはなかった。

 樹菜との出会いは、初めて心を許した他人との遭遇に近かった。熱烈な恋はじきに終わりを告げたが、樹菜に出会った事で、博行の人生は広がりをみせた。樹菜との交際の中から、世界の行く末を見越す視野が開けた。平和の維持を目的とする秘密結社とも言える集団の存在。それが、自分の未来に大きな影響を与える予感があった。

 高校生になった博行は、同じ剣道部に入って来た少女に、心を惹かれた。それが幸坂麻也だった。

 誰に対しても一歩間を置くような、礼儀正しい、節度ある態度。きりっとした正義感にも似た張りつめた雰囲気。誰もが羽目を外すような瞬間にも自分を忘れない。それでいて母性豊かな内面を持っている美少女だった。

 たいていの男子が一度は気を惹かれても、けんもほろろの扱いに、いつしか付いたあだ名が鉄の女だった。

 その気になれば落とせない女子はいない博之だったが、何度アプローチを試みてもあっさりかわされる。樹菜仕込みの手練手管を労しても、麻也は落ちそうにもなかった。

 鷹野美緒に出会ったのは、義務で出席を余儀なくされたパーティの時だった。美緒は鷹野家の令嬢だが、美しいだけでなく、頭脳も優秀、しかも、進んだ考え方を持っていた。

 眉目秀麗、スポーツ万能、頭脳優秀、名門の息子。学校では女生徒に人気の高い博行だが、社交界では隠し子という陰が付いてまわる。その博行の素性を知りながら、美緒の方から近づいたのだ。美緒は、父親が勝手に決めた縁談を、恋人を作る事で破談にするため、と言いながら、本当は博行に惹かれてもいた。

「付き合う相手は自分で選びたいの。どんなにいい男性でも、女性を下に見る様な人は嫌。貴方ならそんな事はないでしょう。お互い楽しくいられるのが一番よ」

 折りも折、博行は従姉妹の尾之多紫苑に追い回されて困っていた時でもあった。半ば計算ずくで二人は恋人になった。

 そんな中、博行が麻也の様子が変わったのに気づいた時にはもう遅かった。彼女には彼女の心を許せる相手がすでに存在してしまっていた。苦し紛れにジタバタしてみたが、どうにもならず、事態を悪化させるだけだった。

 しかし、たまたま彼女が巻き込まれた事件で、無私の行為によって、思いがけず得る事が出来た信頼関係が救いになった。

 今でも、心の中に入り込んでしまった彼女を自分なりに愛している。探していた自分の存在理由が、もしかしたら、そこにあるのではないかとさえ思った。

 存在したい理由は他にもあった。樹菜もディックも何も言わないが、成長してきた紗矢を見ていて、もしかすると、との思いが心の底に矢のように刺さっている。

 そうして、秘密は秘密のままに、博行は麻也と紗矢の未来の為に生きる道を選ぼうとしていた。

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沙美依のモノローグ 2008.3.4

 先日、4、で不適切と思われる表現を使ってしまいました。訂正いたします。

Mannga11  

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ハンサム・ザ・キャット~愛の因数分解~ 〈5.秘密のABC その1〉

「遅くなって申し訳ありません。お祖母様」

 Rホテルの最上階のパーティ会場の入り口のドアの所で立ち止まり、尾之多博行は奥の方に向かって一礼をした。

「いいのよ。準備で忙しいのでしょう。ほら、こちらに来て皆さんに挨拶を」

「皆様方、今日はお忙しい中、僕のような者の為にわざわざ足を運んでいただき、本当に有り難うございます。留学した暁には、尾之多家の家名を汚す事の内容、誠心誠意、意欲と努力で、勉強してまいります。そして、ここにお集まり下さった皆様方のご期待に副えるよう、必ず結果を持って帰れるよう頑張ろうと決意しております。今日は僕の為にここにお集まりいただき、本当に有り難うございました」

 一同の拍手のあと、尾之多房江がマイクの前に立つ。

「皆様、今日は孫の送別会にお集まり下さって本当に有り難うございます。ほんの内輪のささやかなものですが、このホテルの自慢のシェフの料理も取り揃えてありますから、どうぞ召し上がっていって下さいね。では、乾杯の音頭を」

 グラスに高級なシャンパンが注がれ、グラスとグラスのぶつかる音が響く。乾杯の後、各々の席でフルコースの食事が始まった。

「しかし、さすがに博之君は優秀ですな。秀行さんの血を引いておられる」

「ええ。あの子もきっと草葉の陰で喜んでいる事ですわ」

「お母様、範秀や秀華だって優秀ですわよ」

 尾之多華奈が少し不機嫌そうに言う。

「ええ、分かっていますよ。わたしは優秀な孫達に恵まれて本当に幸せ者ですわ」

「しかし、理学部とは意外ですな。わたしはてっきり範秀君と同じように経済学部に行かれるものと思っていました」

「おっほほほほ。あの子は欲がないのですわ。でも、尾之多家から博士が出るのもよろしいんじゃありません? ねえ、お母様」

「そうね。範秀が後を継ぐ事を考えると、良かったのかもしれませんわ。兄弟喧嘩は見たくありませんものね」

 その時、会場の入り口に立派な顎ヒゲを持った老人が現れた。博行が気づいて席を立ち、入り口に迎えに行く。

「お祖父様。お体のお加減は宜しいのですか?」

「うむ。少しだけ顔を出しておこうかと思うてな」

「あら、あら、あなた。無理をなさらずともよろしいのに。ほんの内輪の送別会ですから」

「会長、お体の具合は如何でいらっしゃいますか?」

 会場に居合わせた者が皆、口々に世辞を言いながらやってくる。

「ああ、皆さん。席を立たんでもよろしい。孫に一事送別を言いたかっただけじゃ」

「あちらに席を用意してございます。どうぞ」

「いや、すぐに帰るからいい」

「お祖母様。僕がお祖父様をお送りしていっても宜しいでしょうか?」

「あら、あなたは主賓なのよ、博行。でも、まあいいわ。頼むわね」

「では、皆様、失礼いたします」

「ほんとに内気な子で、パーティはあまり好きじゃないんですの。お~っほっほっほ」

 華奈の笑い声が会場に陽気に響く。

「博行。本当にいいのか? 範秀は確かに優秀ではあるが、ちと覇気に欠ける所があってな。わしはお前の方を後々の跡継ぎにしたかったのだが」

「お祖父様。僕は遠慮しているわけではありません。自分に向いている道に行きたいと考えているだけです」

「そうか。残念じゃが仕方ないのう。体に気をつけてな」

「はい。お祖父様も」

 博行は祖父を家まで送って行くと、ひとり、車で出掛けた。

 神那崎樹菜(かんなざきじゅな)がチャイムの音にドアを開けると、タキシード姿の博行が大きなプレゼントの包みを持って立っていた。奥の方から紗矢が走るように出てきた。

「お兄ちゃん!」

「やあ、元気そうだね。紗矢」

 抱き上げておでことおでこを合わせる。

「何時たつの?」 と、樹菜。

「明日」

「そう。ちょっと入ってく?」

「いや。今日は紗矢にプレゼントを持ってきたんだ。しばらく会えないからね」

「なに? なに?」

「開けてごらん」

「うわぁ! おっきなイルカさん!」

「紗矢、イルカ大好きだろ」

「うん。ありがとう、お兄ちゃん」

「紗矢、向こうでイルカさんと遊んでいらっしゃい」

「はぁ~い」

「彼女にはもう挨拶したの?」

「いや、しないで行く。後の事は頼むよ。樹菜」

「任せておいて。遠いっていっても、今はテレビ電話で顔も見られるから寂しくないわね」

「ああ、じゃ」

 と言って出ていこうとする博行を樹菜が後ろから抱きしめる。

「体には気をつけてね」

「樹菜も」

 去っていく博行の後ろ姿を見送りながら、樹菜は博行に初めて出会った時の事を思い出していた。

 その時、樹菜は居間のソファでゆったりと午後のお茶を楽しんでいた。庭の方で物音がしたので、テラスのガラス窓を開けると、庭の木立の中に中学か高校生くらいの少年が立っていた。顔は傷だらけで、服も血と泥で汚れて破けていた。樹菜に気がつくと、

「すみません。ちょっとだけここで休ませて下さい」

 樹菜の方を見もしないでそう言って、気だるそうに庭木に寄りかかった。

 喧嘩をした後のように見えるのに、目上の者に対する丁寧な言葉が自然と出る。しかも年のわりに大人びた眼つきが、世の中を斜めに見ているような、そんな雰囲気が樹菜の心を捉えた。

「君、怪我をしているじゃないの。ちょっと入っていらっしゃいな。手当てをしてあげるわ」

 樹菜が言うと、少年は顔をこちらに向け、真っ直ぐに樹菜の目を見た。樹菜の値踏みでもしているような様子にも係わらず、その瞳は澄んでいる。

「木に血が付いて汚れるのは嫌なのよ。さ、こっちに入ってきて」

「じゃあ、お世話になります」

 おとなしく樹菜に手当てされた。

「喧嘩? それとも苛め?」

「ちょっと、大立ち回りをしてしまったんです」

「ひどい傷だわ。服を脱いでごらんなさい」

 言われたとおり服を脱ぐ博行。体中に傷と痣ができている。

「やっぱり。ここは痛む?」

 と、樹菜が触ると、顔をしかめる博行。

「肋骨が折れているかヒビが入っている可能性があるわ。医者に見せなきゃ」

「大丈夫です。もう出て行きますから」

「待って、医者にかかる気はないのね。じゃあ湿布を貼っておくわ。相手は何人なの? ここへ追われてきたの?」

 少年はふっと笑って、

「さあ、8、9人かな。覚えていない。でも、相手の連中はもっとひどい傷かもしれない。感情を抑え切れなかったから。追ってくるほどの気力はないと思います。庭に入ってきてすみませんでした。ちょっと途方に暮れていたものですから」

「そうなの? 途方に暮れるというよりは、力尽きたって感じだったわよ」

 少年は樹菜の目を見て、少し考えているような素振りだったが、

「喧嘩した事がバレると困るんですよ。転んで怪我したって言い訳じゃ通りそうにもないから、どうしようかと思って途方に暮れていたんです。それで、家に帰れずにふらっとここへ入ってきてしまったんです」

「そう。分かったわ。喧嘩の事は内緒にしとく。でも、相手の方からバレたりしない?」

「それはたぶんないと思います。子供に負けたって噂が立つと彼らも困るでしょうから」

「名前を聞いてもいい?」

「あなた、秘密を守れる人?」

「ふふふっ。もし、あなたがわたしの秘密を知ったら、きっと驚くわよ。つまり、人に言えない秘密を持つものは秘密を守る事が出来るって事。いいわ。わたしが言い訳を作ってあげる」

 そう言って、樹菜は庭に出ると、背の高い植木梯子を物置から取り出してきて、植木が並んでいる所で押し倒した。ガチャガチャ-ンと派手な音がしてあちこちの鉢が壊れ、植えてあった植物と土が散らばった。

「わたしがあなたにあの木の剪定を頼んだの。ところが、バランスが崩れてあなたはヒドイ落ち方をしたの。いい?」

 樹菜は博行の傷口を止めていたバンソコを外すと、ぎゅっと血を絞り出した。持ってきた鉢のかけらに血をつけると庭に放り投げて、再び傷の手当をし直した。

「わたし、あなたのご両親に大変な事をしてしまったわ。電話して謝らなければ」

 いかにも大変な事をしてしまった様な困った顔つきをする樹菜。呆然として樹菜のする事を見ていた博行が聞く。

「あなたは一体何者?」

 それには答えず、

「ねぇ、どうしてわたしの家を選んだの?」

「花が、あの木の花が目についたから」

 少年は庭の方に視線を向けた。

「花水木ね」

「亡くなった母さん、あの花が好きだった」

「わたしの名前は神那崎樹菜。25才よ」

「僕は尾之多博行。14才」

 博行は樹菜が差し出した手を握って握手した。

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