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2008年4月

ハンサム・ザ・キャット~愛の因数分解~ 〈17.陽の使者 その1〉

 通りから外れた道の片側に止めてある自動車の中で、仮眠している設楽怜侍の耳元のイアホンから、突然大きな厳しい声が響いて、設楽は目を覚ました。

「〔猫〕が〔烏〕にさらわれた! 追尾しろ!」

 慌てて起き上がった設楽が、車の中に設置されている探知機をチェックすると、緑色の光点が速いスピードで移動している。車のエンジンをかけ、後を追うように走らせる。走りながらハンズフリーのマイクに話しかける。

「手は幾つ来る?」

「二つ。一つは〔烏〕の前方から回り込む。もう一つは5キロ先で併走する。港に追い込む」

「了解」

 設楽に連絡をした人物は、さらに別の場所に電話をする。

「〔網〕より〔巣〕へ。そちらの様子はどうだ?」

「〔紋章〕に連絡をしている様子だ。他に異常は無い」

「引き続き、業務を頼む」

「了解」

「〔鈴1〕より〔網〕へ。〔烏〕がもう一羽現れた」

「同じ種類か?」

「そのようだ。併走車が阻止されている。応援頼む」

「了解。〔網〕より〔岩〕へ。手が足りない。あと二つばかり回せるか?」

「何とかしよう。今、どこだ?」

「場所は、港の西北西を南に移動中。二羽の〔烏〕を追尾中。右のテールランプが目印だ」

「了解。一羽の阻止は任せておけ。橋の所でブロックする」

「了解。〔網〕より〔鳩〕へ。〔烏〕を港に追い込む。〔猫〕の奪還を頼む」

「こちらは〔鳩〕、了解」

 人知れず、深夜の道路上でカーチェイスが繰り広げられていた。道路の所々に設置された交通監視カメラを気にしながら、さり気なく行く先を邪魔しようとする。目立ちすぎるカーチェイスが後々面倒になるのは、追う方も追われる方も同じだ。

「〔鈴1〕より〔網〕へ。三羽目の〔烏〕が現れた」

「了解。〔鳩〕を三羽用意した。〔鈴2〕が復帰。じき合流する」

「了解」

「〔巣〕より〔網〕へ。〔飼い主〕が動いた」

「ガード頼む」

「〔巣〕より〔網〕へ。〔飼い主〕が女性と接触。正体は不明。危険性は無いように見える」

「女性の正体を探れ」

 やや離れた屋根の上に、暗闇でも見える望遠鏡で、麻也の様子を見張っている男がいる。もうひとり、麻也からかなり離れて物陰で気配を隠すように後を追ってきている男がいた。その男は、屋根の上の男から連絡を受けて、女性の方の後を付けて行く。屋根の上の男はそのまま麻也の様子を窺っていた。

「〔巣〕より〔網〕へ。〔飼い主〕が正体不明の男性と接触。知り合いのようだ。こちらも危険性はなさそうに見える」

「会話の傍受は? 正体を探れ」

「遠すぎる。近寄ってみる」

 静かに気づかれないよう屋根の上を這っていく。しかし、会話を聞き取れるほどの距離に近づくことは出来ない。会話が終わって、男が立ち去ろうとすると、〔網〕に指示を仰いで、その男の行き先を見極めようとした。しかし、公園の所で見失ってしまった。

 まさか! こんな視野の広い所で、巻かれたのか? ありえない。一体何処へ行ってしまったんだ。何時やってきたかも分からなかった。あいつは何者なんだ。

 と、その時、女性の後を追って行った者から連絡が入る。

「なに? そっちも見失ったのか? 気づかれたのか? 我々をまくなんて、一体あいつらは何者なんだ」

 屋根の上の男は、状況に納得できないまま、〔網〕に一部始終を報告すると、麻也の後を追いつつ、幸坂家から少し離れた所にあるマンションの、高みの一室に戻った。望遠鏡を覗き込み、幸坂家と辺りを見張る。

「〔鈴1〕へ。奪還に成功した。受け渡しを頼む」

 設楽はハンサムの身柄を受け取ると、どう説明するかの指示を受けた後、車で幸坂家に向かい、ハンサムを受け渡した。

 翌朝目覚めたハンサムは、麻也の腕がしっかりと自分の首に巻きついているのでびっくりした。見ると、麻也の頬には涙の跡が付いている。

「麻也! 一体、どうしたの?」

「ハンサム! 大丈夫なの?」

 ハンサムに揺すぶられて目覚めた麻也が、心配そうにハンサムの顔を覗き込み、お互いに顔を覗き込むような感じになる。

「うん。僕は別になんともないけど・・、麻也、泣いていたの? 何があったの?」

 指で麻也の頬の涙の跡を拭くように撫でる。撫でるハンサムの手の上に自分の手を重ねて、目を潤ませる麻也。ハンサムは重ねられた麻也の手を握ろうとして、自分の手首に、ロープで縛られていたかのように、赤く擦れた跡が付いているのに気がついた。

「あれ? これ、どうしたんだろう?」

「昨日の事、覚えていないの?」

「昨日? あっ! 麻也! 誰かに後を付けられたって。あれから何かあったの?」

「ううん。何かあったのはあなたの方よ」

「え? あ、そう言えば、昨日、学校を出て、麻也に電話をしなくちゃと思っていて、急にすごく眠くなってきて、それから・・・僕、どうやって学校から帰ったんだろう?」

 麻也は昨夜ハンサムの身に起こった出来事を話した。

「ごめんなさい。僕、麻也に心配かけてたんだね」

「ううん。わたしの方こそごめんなさい。辛い目にばかりあわせて。わたしが月の石に願い事を叶えてもらおうとしなければ・・」

「麻也! 僕は、人間になった事、人間でいられる事、少しも嫌だって思っていないよ。ううん。人間になれて良かったって思ってる。だって、人間になれたからこそ、大好きな麻也を抱きしめる事が出来るんだもの。麻也は僕が猫に戻った方がいいって思うの?」

「いいえ。いいえ」

 首を振りながら、それでも涙が止まらない麻也の頬を、ハンサムは優しく撫でて、涙を拭った。

「僕、何があっても、ずっと人間のまま、麻也の側にいたい。だから、もうそんな風に考えないで。泣かないで。麻也は僕にいい事をしてくれたんだから」

「ハンサム」 

 ハンサムの胸に顔を埋める麻也の肩が、小刻みに震えるのを、優しく包み込むように抱きしめるハンサムだった。

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ハンサム・ザ・キャット~愛の因数分解~ 〈16.月の使者 その2〉

 紳士は真っ直ぐに〔ガチャガチャ〕の器械の所に行くと、器械をマントの中に隠した。器械はマントの中に隠されると、マントに吸い込まれたように、形を失っていった。紳士は麻也に気がつくと、紳士の方から麻也に話しかけてきた。

「これは、これは。いつぞやのお嬢さんですね」

「わたしを覚えておられるのですか?」

「はい。願い事は叶いましたかな?」

「あの、あなたは一体何者なのですか? 何処から来たのですか?」

「わたしはユール、探求者です。遥か彼方の地、ヴォルーラから来ました」

「ヴォルーラは月に関係のある場所なのですか? 〔月の石〕はどうやって願い事を叶えるのでしょう?」

「いいえ、月には関係の無い場所ですよ。各地には各地の状況に合わせて形を変える事になっています。〔月の石〕という形を使うのが、この地では適当と判断されたのです。願い事を叶える方法には、ミュウ係数と、デュール分子学的変数による位置変換法の応用技術が、主に使われています。変換による空間の歪みの許容範囲によって、叶う願い事の範囲も限られるのですが、この世界の物質の変換に係わる願い事であれば、大抵の願い事が叶うようになっています」

「どうしてこんな事をしているのですか?」

「それは、今はお教えできません。もし、貴女に月の幸運が微笑みかけるようでしたら、いつか、お教え出来る時が来るかもしれません」

「わたし、猫を人間に変える願い事を叶えてもらったのですが、その変身した人を好きになってしまったんです。でも、その人と一緒になると、この世界が壊れる、と言った人がいました。わたしの願い事は叶えてもらってはいけない事だったのでしょうか?」

「叶ってはいけない願い事は、叶わない事になっていますよ。叶ったのなら問題はありません。貴女の心のままに進みなさい。月の幸運に出会えるかもしれませんよ」

「月の幸運とは、どういう事なのですか?」

 紳士は、白い手袋をはめた右手の人差し指を口元にあて、しばらく考えた後で、ゆっくりと口を開いた。

「この世界を離れて、ヴォルーラに来る勇気はお持ちですか?」

「この世界を離れて・・・?」

「そうです。はるか時空を超えた世界ヴォルーラへと。戻れる保証はありませんが、総ての謎の訳を知りたいのがお望みならば、お連れしましょう」

「いいえ。わたしはこの世界で、好きな人と穏やかに暮らしたい。それがわたしの望みです」

「そうですか。今が最後のチャンスになると思いますが、よろしいのですね?」

「最後のチャンス、と言いますと、もしかして、もう月の石を持って来ないという事ですか?」

「お察しの通りです。今回のわたしの役目は終わりました。後はジュムルが発動する様子を観察するだけです」

「ジュムルが発動する? 願い事によって地球が壊れたりしませんよね?」

「それは、発動のあり方によって決まる事です」

「では、壊れる可能性があるという事なのですか?」

「貴女の属する世界自体がその可能性を内包する世界です。人々の願いによって世界が動かされるのなら、可能性自体もまた、流動するものではありませんか?」

「おっしゃるとおりです。でも、〔月の石〕のような存在は、この世界ではイレギュラーなのではありませんか? そのような物を持ち込むべきではなかったのではありませんか?」

「それは、わたしが決めた事ではありません。わたしは自分の使命を全うしただけです。でも、イレギュラーがレギュラーを補完するのが、この世界の成り立ちなのかもしれませんよ。それを見届けるのもわたしの運命ですが。そろそろ行かねばなりません。通路が閉じてしまうと帰れなくなってしまうので」

「いろいろと教えていただいて有り難うございました」

「では、貴女の望みに幸運を」

 うやうやしく礼をすると、紳士は公園の方角に歩み去って行った。

 家に戻った麻也が、眠ることも出来ず、連絡を待っていると、夜更けの家を訪う者があった。用心しながら玄関を開けると、設楽が立っていた。

「月影君をお連れしました」

「えっ? ハンサムを?」

「はい。車の中で眠っています」

「どういう事なんですか?」

「どうやら睡眠薬を飲まされたようです。学校から出た所で、ふらついている所を拉致しようと企んだ者がいたのですが、奪還しましたから大丈夫です」

「車の中ですやすやと安らかな寝顔で眠っているハンサムを、自分の目で確かめると、麻也の体から急激に力が抜けていくようだった。

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ハンサム・ザ・キャット~愛の因数分解~ 〈15.月の使者 その1〉

 幸坂麻也は学校からの帰り道、誰かに後を付けられている事に気がついた。鞄から痴漢除けスプレーをそうっと取り出して、いつでも使えるようにすると、足を速めた。幸い、追いつかれる前に家にたどり着いた。

「ハンサム! そっちの方はどんな具合?」

 たどり着くとすぐに電話する。

「今さっき、学校に着いたところだよ。今のところ何もないけど、帰る時にまた電話するよ」

 そう言えば、最近、近所の犬がよく吠えている。家の周りをうろつく者がいるのかもしれない。不安なままハンサムの帰りを待つ麻也に、蓮河から電話が掛かってきた。

「麻也さん。何かあったのですか?」

 不安そうな麻也の声の響きに、蓮河が聞く。

「あ、いいえ。蓮河さんの方こそ、何もありませんか?」

「それが、実は、今日、妙な女性の患者さんに出会いましてね。先生は〔月の石〕を知っていますか、と、聞くんですよ」

「それで?」

「知らないと答えると、幸坂麻也さんは知っていますよね、と、言うものですから、ええ、知っていますよ、と、答えたんです。貴女はどうして麻也さんの事を知っているのですか、と、聞いたら、それには答えないで、彼女とすぐに結婚しないと、大きな災厄が地球に降りかかる、と、言うのです。あ、これ、言っておきますが、決して僕自身の売込みではありませんよ」

「はい」

「それで、占いでもされるのですか、と、聞いたんです。そしたら、占いではなく、貴方の運命は世界の運命に係わっている、さらってでもいいから早く結婚しなさい、と、言うのです。精神的な問題は僕の専門外ですが、差し迫った危険性はないと判断しましたので、笑って済ませて、怪我の治療だけして帰したのですが。その後が問題なんです」

 一呼吸置く蓮河の声に緊張の響きが増す。

「どうやらその女性は、他人の保険証を使って治療を受けた事が、その後で発覚したんです。〔月の石〕と、僕と麻也さんの事を知っている、正体不明の女性。これは是非お知らせしておかなければと思って」

「どんな感じの人でした?」

「ちょっと不思議な、エキゾチックな感じのする若い女性で、目が大きくて、髪は短めで、色白で背が高くて、すらっとしたモデルでもしているような感じの人です。それが、人間離れしているというか、日本語を話すのに、まるで外国の人のようでした。誰か心当たりがありますか?」

「いいえ、全くありません。お知らせいただいて有り難うございます。あの、実はわたし、今日、学校からの帰り道で誰かに後を付けられたようなんです。蓮河さんも気をつけて下さい」

「えっ? 大丈夫なんですか?」

「はい。何も起こりませんでしたから」

「そうですか。麻也さん、くれぐれも気をつけて下さいね」

「はい。蓮河さんも」

 その後、麻也は、ハンサムが学校から出た頃を見計らって、麻也の方から電話をした。しかし、応答がない。何度電話してみても、圏外か電源を入れていないとのメッセージが聞こえるだけだ。学校に電話をかけると、もう学校を出た筈だという。

 胸の鼓動が辺りに響いているように大きく感じられる。目眩がしてきて目を閉じると、赤い闇に包まれて恐怖に捕まりそうになり、救いの光を求めるように目を開ける。これ以上は一人では解決できない。不安が頂点に達した麻也は矢城刑事に電話をした。

「月影が?」

「はい。実は、少し前に、拉致されそうになった事がありました」

「まだ、そっちの警察には連絡していないんだね?」

「はい」

「そうか。まだ拉致されたとは限らんと思うが。心配するなと言っても無駄だろうけど、とにかく、わたしの方で調べてみるから、少し待ってくれるかい? 何か分かったらすぐに連絡するからね」

「はい。よろしくお願いします」

 受話器を置いたままの手の上にもう一方の手を重ねて、神に祈るように、よろしくお願いしますの声を心の中で復唱した。

 連絡の来ない不安な時間が麻也の上を通り過ぎる。窓から外を窺うと、風の吹きすぎる家の前の通りが、月の光に照らされて白く光っているばかり。

 夜は更けて、家々は冷たい月の影に沈んで静まり返っていた。ふと、夜空を仰ぐと、くしくも満月が怪しいばかりに光を投げかけている。

 そうだわ! あの人! あの人に出会えれば、〔月の石〕の秘密が分かるかもしれない。そうすれば、万が一、ハンサムが拉致されていても、秘密と引き換えに帰してもらえるかもしれない。

 或いは、〔ガチャガチャ〕があれば、〔月の石〕でハンサムを帰してもらう願いを叶えてもらえるかもしれない。ハンサムにあげた〔月の石〕は、ハンサムが、誰にも見つからないようどこかに隠しておいた、と、言っていた。

 麻也は、家で待っていた方がいいと言う母を振り切って、駅までの道を探してみるからと、夜深い街へと家を飛び出した。家の周りに人影はなかった。それでも用心しながら歩を進める。

 路地裏に来ると、例の階段の所を見る。前に見たのと同じ〔ガチャガチャ〕の器械がある。今夜は時間が遅い。あの人はとっくに行ってしまった後なのだろう。器械を見ると、中に僅かに残っているカプセルが青く怪しく光っている。

 持ってきたありったけの五百円玉を入れる。五百円玉が尽きる前に、カプセルの方が尽きてしまった。〔月の石〕は手に入らなかった。

 がっかりして、立ち尽くす麻也。ふと、人の気配に気がついた。いつでも逃げられるよう、防戦できるよう構えて、気配のした方を向くと、背の高いすらりとした短髪の女性が、建物の影から現れ、麻也の前までゆっくりと歩いてやって来た。

「〔月の石〕は出なかったでしょう? 一度に一個しか入っていないらしいの。私が先に手に入れたから、もう無いはずよ。残念だったわね」

 女性はエキゾチックな微笑を浮かべながら、麻也に話しかけた。右手を掲げて手のひらの上にあるカプセルを見せる。

「あなたは誰なの?」

 会った事もないのに、どこかで会ったような気のする不思議な感覚に襲われて、麻也が聞く。

「私の事はどうでもいいわ。麻也さん。貴女は蓮河さんと結婚しなければいけないわ。それで世の中がうまく納まるのだから。と言うよりも、存続するという事らしいけど。難しいことは分からないけど、貴女が月影ハンサムと一緒になると、この世界が壊れるのよ」

「そ、そんな事、どうやって信じろというの? どうしてわたしたちの事を知っているの?」

「ちょっと事情が複雑なの。私自身もよくわからない事だらけで。でも、覚えておいてね。貴女の相手はハンサムではなく蓮河さんよ」

 それだけ言うと、女性は踵を翻して、足早に去って行った。

 呆然と夜の中に取り残された麻也。しばらくして、重い足取りで帰ろうとした時だった。ゆらりと、塀の中から、あのシルクハットの紳士が、初めて出会った時のように出現したのだった。

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ハンサム・ザ・キャット~愛の因数分解~ 〈14.スパイのABC その2〉

「それで、〔月の石〕の分析はどのくらい進んでいる?」

 研究室を訪れたクレインは、調査の報告を待っていた。

「粉になった方の解析は終わりました。今までに見つかった地球上の岩石に比べて、異常に多くの貴金属を含んでいる事は分かりましたが、その他の点で特に変わった所は見られません。石の方はX線等による解析や、外面からの物理学的な調査は済んでいますが、なにしろ、壊すわけにはいきませんので、難航しています」

「うむ。数があれば良いのだが、捜索の方も難航しているからな」

「いっその事、願い事を叶えてみればいいのではありませんか? もっと石が増えるようにと」

「それは見つかった時点で実験済みだ」

「えっ、やってみたのですか?」

「叶わない願い事もあるようでな。説明書の通り儀式をやってみたが、石は粉々にならず、石の数も増えなかった。儀式が間違っていたのではないかと、もう一度やってみたが、やはり増えず、石が粉々にならなかったため、無理だったのだろうと思われる」

「もしかすると、一度それをやってみた時点で、願い事が叶う石の力がなくなっているという可能性もあるのでは?」

「わからん。が、しかし、その粉になった方の石の持ち主の言い分では、二度目の願い事で叶ったという事だ」

「それはどのような願い事だったのですか?」

「一度目は亡くなった母親を生き返らせるよう頼んだらしい。二度目は宝くじを当ててもらったという事だ」

「なるほど」

「石は翌朝粉々になり、宝くじは当たりの番号に変わっていたと言う」

「変わっていたと言うと、当たりが二枚になったという事ですか? もしかして偽造の言い訳では?」

「いや、そうではないらしい。券を調べたが、偽造の可能性はないそうだ。もう一人いたとしても、まだ、当選金を貰いに来ていないそうだ。従って、当たった者がすり替えた可能性もない訳ではない」

「で、当選金は支払われたのですか?」

「そうだ。む!」

「すみません。では、この石が願い事を叶えるという証拠はあるのですか?」

「その目で見てみるか?」

 調査員は実験施設の地下深くに連れて行かれた。その一角に、厳重に警備されている、動物の保護施設とも思われる部屋があった。

 部屋の中はコントロールルームと保護施設に区切られていて、コントロールルームから保護部屋の中を見る事が出来た。

「こ、これは!!」

「彼は自分の羽で空を飛ぶ願い事を叶えてもらったのだそうだ」

 上半身裸の少年の肩甲骨の辺りから、天使の羽のように、白い大きな翼が生えていた。胸が鳩のように膨らんで、肩口から胸にはダウンのように小さな毛が生え、鳥と人間のキメラのようだった。

「海上を飛んでいる所を、たまたま偵察飛行していた艦載機が見つけ、軍が捕獲した者だ。石によって願い事を叶えてもらう前までは、普通の中学生だった事も調査済みだ」

 鳥人間になった少年が、観察窓の方に悲しげな目を向けた。折角得た自由の翼は使うことも出来ずに、虜となって、実験や観察の対象となっているのだ。ただ、真っ直ぐなその目の光は、人間としての誇りや尊厳を失っていないように見えた。

「家族はこの事を?」

「行方不明という事になっている。〔月の石〕の事が知れて、世間を騒がす訳にはいかない」

「近々、二個目が来るという事でしたね?」

「ああ」

「それでは、石を少し削って調査する許可を申請したいのですが」

「分かった」

 神那崎樹菜に国際電話が掛かってきた。受話器の向こうから聞こえる博行の声に、樹那は懐かしい想いの響きを隠さずに話す。

「それで、研究の方は進んでいるの?」

「ああ。殆ど終わった。もう最終段階に入ったよ」

「凄いわね。そんなに早く」

「天才と呼んでくれてもいいよ」

「ふふふっ。ヒロ君が天才だって事は前から知っているわよ。でも、心配だわ。他の人に研究を取られたりしたら」

「大丈夫、問題ないよ。猫の様子はどう?」

「元気にじゃれているわ。鈴もちゃんと付いているし。でも、最近、周りにいろんな犬がうろついていて心配だわ」

「どんな犬?」

「ポインターやドーベルマン。ボクサードッグまでいるわ。この間なんか、ダルメシアンに吠えられてびっくりしてたみたい」

「飼い主が怖いと、追い払うのも難しいね。ちゃんと見張っていてよ」

「分かっているわ」

「この間、たまたまディックに出会ったよ。彼の仕事の話を聞かされた。大変な仕事だね」

「そちらで重要な会議があるって聞いているわ」

「会議以外にもパーティに出席していたよ」

「それは知らなかったわ。あなたもパーティに出席したの?」

「彼に誘われて出席する事になったけど。僕はパーティは得意じゃないからね。ちょっと顔を出しただけ」

「そう。それはご苦労様」

「最近、僕、ホームシック気味でね。近いうちに日本に一時帰国するかもしれない」

「お家の人が喜ぶかもしれないわね」

「研究ノートは持っていくつもりだから、実験室を貸してもらえるとありがたいな」

「用意しておくわ。じゃ、またその時に電話してね」

 神那崎樹菜は受話器を置いて、冬の風が吹きつける窓ガラスの方に顔を向けた。花水木の枝がしなって、震えているのが見えた。

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ハンサム・ザ・キャット~愛の因数分解~ 〈13.スパイのABC その1〉

 アメリカ、マサチューセッツ、ボストンの郊外にあるアパートで、尾之多博行は久しぶりにシャワーを浴びていた。普段は殆ど研究室に泊り込みのような状態だが、一段落着いた昨夜、ゆっくりと眠った後のシャワーだった。

 ふと、何者かが部屋に侵入しているような気配に、流れるシャワーはそのままに、側に置いてあった太刀もどきを手元に引き寄せ、腰にタオルを巻いた。

 何者かはシャワー室のノブをゆっくりと回して、博行に気づかれないように近づき、銃を構えてシャワー室のカーテンを開ける。と、振り下ろされた太刀に利き腕を折られ、うずくまった所に喉元に太刀を突きつけられた。

「何者だ?」

 と、開いたドアの向こうに動く人影が見えた。うずくまった男に突きを加えて気絶させると、ドアの陰に隠れて様子を見る。銃を持った腕が突き出されると、その腕を折り、引き続いて肩口に太刀を振り下ろして二人目を気絶させた。仲間が倒れるのに気づいたもう一人の侵入者が、叫んだ。

「おとなしく手を挙げて出て来い。お前は囲まれている」

 博行はシャワー室の窓を開けると、そこから外に出る。4階の窓のすぐ下には辛うじて歩けるだけの出っ張りがついている。そこから二つ隣の部屋の開いている窓へ入ろうとした。

 猫を膝の上に置いて、テレビを見ながら、コーヒーを飲んでいる太った婦人が、窓から入って来た殆ど全裸の博行を見て、勘違いを含めた悲鳴をあげた。それを無視して、博行は入り口のドアに向かう。

 博行がドアから出るのと殆ど同時に、その婦人の窓から追手の一人が入り込んできて、婦人は再び悲鳴をあげた。

 ドアから出た博行は、ドアの影で追手を待ち、出てきた所を太刀で叩きのめすと、階段を一足飛びに下へと降りる。階下で待ち構えていた一人が、降りてくる博行に気づき、銃を向けた。が、投げられた太刀に銃を飛ばされた。ところへ、博行が顔面に飛び降りる。倒れた相手に当て身を食わせると、太刀を拾ってエレベーターに乗り込んだ。4階に戻ると、自分の部屋の様子を窺った。

 誰も出てくる気配が無いのでそうっと入る。風呂場に倒れた二人はそのままだが、他に人影は無い。足を洗って服を着る。身なりを整えて、携帯電話で警察に電話をかけ終わると、コーヒーを一杯入れて飲んだ。

 それから、朝食のための冷凍のハンバーガーを電子レンジにかけ、冷蔵庫から野菜ジュースのビンを取り出すと、ドアをノックする音がした。

 ドアの覗き窓から警察手帳を確認して、ドアを開けると、警察官の後ろに、三人の男が銃を構えて立っていた。その中の一人は顔面に足跡が付いていた。

「全く、あんなひよっこ一人連れてくるのに大の男が四人がかりで、三人も大怪我させられて、応援まで動員するとは、何という事だ!」

「申し訳ありません。まさかの油断でした。警察にはこちらの事情を説明しておきましたが、あまり長く引き止めておくのは考え物かと」

 CIAのヨーク・ディモンが尋問室ともとれる一室に入ると、博行がハンバーガーと野菜ジュースの朝食を取りながら座っていた。

「随分と乱暴な出迎えをしてくれたね」 と、博行に話しかける。

「どっちがですか?」

「留学生だそうだが、すごい腕じゃないか」

「日本では、剣道は男のたしなみです」

「傷害罪で訴える事も出来るんだぞ」

「アメリカって正当防衛の国でしょう? 大体、声も掛けずに部屋に入って来て、銃を向けられたら、強盗と間違えても仕方ないでしょう」

「む。まあいい。何故連れてこられたか分かっているな?」

「何故? 分かりません。僕はただの留学生だから」

「マイク・モーガンと知り合いだったな?」

「マイク・モーガン? さあ、知りません。どういう人ですか?」

「とぼけるな! モーガンがお前の写真を持っていたんだ」

「写真? どんな?」

 ディモンが写真を机の上に置く。視線を向けてちらっと見る。

「この写真を誰が持っていたか知りませんが、僕は関係ありません。勝手に盗撮した者がいるって事じゃないですか?」

「モーガンは死んだよ。2日前の事だ」

「それはお気の毒に」

「彼はCIAのエージェントだった。彼が捜索していたのは、」

「そこからは、わたしに代わってもらえないか?」

 ドアが開いて、ディック・クレインが入って来た。

「君か。いいだろう」

 ディモンは部屋を出て隣の部屋に入り、マジックミラーになっている裏側の覗き窓から観察しようと、椅子に腰掛けた。

「ディック。どうしてあなたがここに?」

「これがわたしの仕事の一つでね」

「あなたはCIAの職員だったんですか?」

「そうだよ。わたしの仕事は情報収集の方だがね」

「スパイなんですか!?」

 博行は驚いて見せたが、実は樹菜から聞いて知っていた。

『本当はね、話そうかと思っていたの。結婚した時にね。でも、話したらやめろって言われそうで、先延ばししてたの。そのうち、彼がCIAの諜報活動をしている事を知ってしまって、言えなくなって。わたし達の組織はCIAと敵対している訳ではないけど、組織の事を知られるのは困るのよ』

『僕に話して大丈夫なの?』

『ふふふ。君はこうと決めたら口が裂けても言わない人でしょ。お互いに知らない秘密を持っているどうしの恋も、秘密を共有する者どうしの恋も、どちらも素敵だと思わない?』

 そう言って、首筋を愛撫しながら手を回してくる樹菜の感触を博行は思い出していた。

「今時、スパイなんて言い方は流行らないよ。情報収集員と言いたまえ」

「樹菜はその事を知っているんですか?」

「いや、知らないはずだ」

「僕が話したらどうしますか?」

「君はそれを誰か他の者に話すほどバカではないと、私は思っている。話せば、樹菜も紗矢も巻き込む事になるかもしれないからね」

「どうして、僕に正体を明かすような事を?」

「協力してほしい」

「事と次第によります」

「いいだろう。我々は〔月の石〕という物を追っている。聞いた事があるか?」

「NASAが持ってきた月の石の事なら大抵の人は知っていますよ」

「その月の石の事ではない。この世界の存在そのものを脅かすほどの力を持つと思われる、武器ともなりうる〔月の石〕の事だ」

「いいえ、それは初耳です」

「そうか。〔月の石〕と言うのは日本で発見されたと考えられる。モーガンが何者かに殺害された時、彼は君の写真を財布の中に入れて持っていた。君が留学してきた時期とモーガンが日本からアメリカに戻った時期が重なっている。何か質問は?」

「いいえ。すべて偶然だと思うだけです」

「君が日本にいた時にある事件が起こった。何者かが〔月の石〕を使って武器の設計図を手に入れ、それを某組織に売って金儲けをしようと企んだんだ。その時、その事件に絡んだ幸坂麻也の誘拐事件の事は知っているだろう?」

「あの事件には〔月の石〕が絡んでいたのですか?」

「そうだ。幸坂麻也は君の同級生だな。そして、月影ハンサム、ふざけた名前の奴だが、君も知り合いだろう?」

「知り合いという事ならそうですが、彼らが〔月の石〕の事を知っているとは思えません」

「月影の正体は不明のままだ。なんらかの秘密組織と関わりがあると思っている」

「くくっ」

「なんだね?」

「いえ、失礼しました。彼はただの〔のほほん〕ですよ。そんな事はありえない」

「〔のほほん〕とは何だ?」

「天真爛漫、悪意とは縁のない者の事です」

「我々の立場としてはそう簡単に言い切れないのだよ。彼が一つの手掛かりだからね。記憶喪失の裏に何かがあるのではと睨んでいる。が、一年半の調査では空振りだった。で、君に白羽の矢を立てたという所だ」

「僕に彼の事を探れと?」

「そうだ」

「無理ですよ。後一年こちらにいる予定ですから」

「モーガン殺害との関連を否定できない以上、協力してもらうしかない」

「殺害事件の時の証明がですか? 僕は殆ど研究室に閉じこもっていましたからね。研究の仲間もいたし、もう調べは着いているんじゃないですか? 関係ないと」

「モーガンは優秀な奴だったが、ゲイの趣味があってね。君の写真を持っていた理由を調査中だ」

「調べれば分かる事ですが、僕とは関係ありません。盗撮まで責任持てませんよ」

「この世界では未だ力が支配しているという事を、君も知っていると思うが。彼との関係が出てくる可能性は否定できない」

「イエスしかないという事ですか?」

「もちろん、君の立場も考慮して、すぐに日本に帰れとは言わないがね。ところで、何故、聞かないんだね?」

「何をですか?」

「〔月の石〕の事だよ。普通なら詳しく聞いてきても不思議はない」

「ははは。知らない方がいいみたいな事が多い世の中ですからね。今後の為に防御線を張っただけです」

「そうかね? だが、重要な事だから知っておいてもらう事にしよう。〔月の石〕というのは願い事を叶える石だ。〔ガチャガチャ〕という玩具の器械を利用して販売されていたと思われる」

「えっ? 願い事を叶える石ですって? 〔ガチャガチャ〕ですって?」

 爆笑する博行を静かに見守るディック。

「笑い事で我々が捜索をすると思うかね?」

「では、本当に願い事を叶えるという証拠でもあるのですか?」

「そうだ。証拠の映像を見せても構わないが、見るかね?」

 ディックがマジックミラーになっている鏡の方に合図をすると、しばらくしてドアが開き、ノートパソコンを持ったディモンが入って来た。

 パソコンの中に入っている映像を見た博行の顔が引き締まる。

「まさか! これが」

「そうだ。願い事を叶えてもらった結果だよ」

「先程は失礼しました。あまりにも現実とかけ離れていましたので」

「だからこそ、厄介な事件なのだよ。このような力を持つ石が、他にもいくつも実在するという事は、世界の秩序を乱す元になる」

「他にも、と言いますと、石はすでに何個か手元にあるのですか?」

「そうだ。全力を挙げて捜索しているのだが、現在、我々の手元にあるのは一つだけだ。近々二つ目が手に入る事になっている」

「持っているという事は、どのように願い事を叶えるのか、研究もされているという事ですね?」

「ああ、ネバダにある研究所で分析中だ」

「それで、分かったのですか?」

「いや。まだ、途中だ」

「このような石を作ったのが何者なのか、検討はついているのですか?」

「何らかの組織が絡んでいると思われるが、見当もつかない。我々だけでなく、他国も石の事を嗅ぎつけて情報収集を始めたらしい。それで少々焦っているんだよ。協力してもらえるかね?」

「分かりました。と、言うしかなさそうですね」

「引き受けてもらってありがとう。定期的にでもメールや電話のやり取りをして、友好を深めるよう努力してもらいたい。機会があれば、〔月の石〕や、〔ガチャガチャ〕についての情報も頼むよ。またそのうち連絡する」

 博行に手を差し出して握手すると、ディックはドアを出て行った。

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