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ハンサム・ザ・キャット~愛の因数分解~ 〈15.月の使者 その1〉

 幸坂麻也は学校からの帰り道、誰かに後を付けられている事に気がついた。鞄から痴漢除けスプレーをそうっと取り出して、いつでも使えるようにすると、足を速めた。幸い、追いつかれる前に家にたどり着いた。

「ハンサム! そっちの方はどんな具合?」

 たどり着くとすぐに電話する。

「今さっき、学校に着いたところだよ。今のところ何もないけど、帰る時にまた電話するよ」

 そう言えば、最近、近所の犬がよく吠えている。家の周りをうろつく者がいるのかもしれない。不安なままハンサムの帰りを待つ麻也に、蓮河から電話が掛かってきた。

「麻也さん。何かあったのですか?」

 不安そうな麻也の声の響きに、蓮河が聞く。

「あ、いいえ。蓮河さんの方こそ、何もありませんか?」

「それが、実は、今日、妙な女性の患者さんに出会いましてね。先生は〔月の石〕を知っていますか、と、聞くんですよ」

「それで?」

「知らないと答えると、幸坂麻也さんは知っていますよね、と、言うものですから、ええ、知っていますよ、と、答えたんです。貴女はどうして麻也さんの事を知っているのですか、と、聞いたら、それには答えないで、彼女とすぐに結婚しないと、大きな災厄が地球に降りかかる、と、言うのです。あ、これ、言っておきますが、決して僕自身の売込みではありませんよ」

「はい」

「それで、占いでもされるのですか、と、聞いたんです。そしたら、占いではなく、貴方の運命は世界の運命に係わっている、さらってでもいいから早く結婚しなさい、と、言うのです。精神的な問題は僕の専門外ですが、差し迫った危険性はないと判断しましたので、笑って済ませて、怪我の治療だけして帰したのですが。その後が問題なんです」

 一呼吸置く蓮河の声に緊張の響きが増す。

「どうやらその女性は、他人の保険証を使って治療を受けた事が、その後で発覚したんです。〔月の石〕と、僕と麻也さんの事を知っている、正体不明の女性。これは是非お知らせしておかなければと思って」

「どんな感じの人でした?」

「ちょっと不思議な、エキゾチックな感じのする若い女性で、目が大きくて、髪は短めで、色白で背が高くて、すらっとしたモデルでもしているような感じの人です。それが、人間離れしているというか、日本語を話すのに、まるで外国の人のようでした。誰か心当たりがありますか?」

「いいえ、全くありません。お知らせいただいて有り難うございます。あの、実はわたし、今日、学校からの帰り道で誰かに後を付けられたようなんです。蓮河さんも気をつけて下さい」

「えっ? 大丈夫なんですか?」

「はい。何も起こりませんでしたから」

「そうですか。麻也さん、くれぐれも気をつけて下さいね」

「はい。蓮河さんも」

 その後、麻也は、ハンサムが学校から出た頃を見計らって、麻也の方から電話をした。しかし、応答がない。何度電話してみても、圏外か電源を入れていないとのメッセージが聞こえるだけだ。学校に電話をかけると、もう学校を出た筈だという。

 胸の鼓動が辺りに響いているように大きく感じられる。目眩がしてきて目を閉じると、赤い闇に包まれて恐怖に捕まりそうになり、救いの光を求めるように目を開ける。これ以上は一人では解決できない。不安が頂点に達した麻也は矢城刑事に電話をした。

「月影が?」

「はい。実は、少し前に、拉致されそうになった事がありました」

「まだ、そっちの警察には連絡していないんだね?」

「はい」

「そうか。まだ拉致されたとは限らんと思うが。心配するなと言っても無駄だろうけど、とにかく、わたしの方で調べてみるから、少し待ってくれるかい? 何か分かったらすぐに連絡するからね」

「はい。よろしくお願いします」

 受話器を置いたままの手の上にもう一方の手を重ねて、神に祈るように、よろしくお願いしますの声を心の中で復唱した。

 連絡の来ない不安な時間が麻也の上を通り過ぎる。窓から外を窺うと、風の吹きすぎる家の前の通りが、月の光に照らされて白く光っているばかり。

 夜は更けて、家々は冷たい月の影に沈んで静まり返っていた。ふと、夜空を仰ぐと、くしくも満月が怪しいばかりに光を投げかけている。

 そうだわ! あの人! あの人に出会えれば、〔月の石〕の秘密が分かるかもしれない。そうすれば、万が一、ハンサムが拉致されていても、秘密と引き換えに帰してもらえるかもしれない。

 或いは、〔ガチャガチャ〕があれば、〔月の石〕でハンサムを帰してもらう願いを叶えてもらえるかもしれない。ハンサムにあげた〔月の石〕は、ハンサムが、誰にも見つからないようどこかに隠しておいた、と、言っていた。

 麻也は、家で待っていた方がいいと言う母を振り切って、駅までの道を探してみるからと、夜深い街へと家を飛び出した。家の周りに人影はなかった。それでも用心しながら歩を進める。

 路地裏に来ると、例の階段の所を見る。前に見たのと同じ〔ガチャガチャ〕の器械がある。今夜は時間が遅い。あの人はとっくに行ってしまった後なのだろう。器械を見ると、中に僅かに残っているカプセルが青く怪しく光っている。

 持ってきたありったけの五百円玉を入れる。五百円玉が尽きる前に、カプセルの方が尽きてしまった。〔月の石〕は手に入らなかった。

 がっかりして、立ち尽くす麻也。ふと、人の気配に気がついた。いつでも逃げられるよう、防戦できるよう構えて、気配のした方を向くと、背の高いすらりとした短髪の女性が、建物の影から現れ、麻也の前までゆっくりと歩いてやって来た。

「〔月の石〕は出なかったでしょう? 一度に一個しか入っていないらしいの。私が先に手に入れたから、もう無いはずよ。残念だったわね」

 女性はエキゾチックな微笑を浮かべながら、麻也に話しかけた。右手を掲げて手のひらの上にあるカプセルを見せる。

「あなたは誰なの?」

 会った事もないのに、どこかで会ったような気のする不思議な感覚に襲われて、麻也が聞く。

「私の事はどうでもいいわ。麻也さん。貴女は蓮河さんと結婚しなければいけないわ。それで世の中がうまく納まるのだから。と言うよりも、存続するという事らしいけど。難しいことは分からないけど、貴女が月影ハンサムと一緒になると、この世界が壊れるのよ」

「そ、そんな事、どうやって信じろというの? どうしてわたしたちの事を知っているの?」

「ちょっと事情が複雑なの。私自身もよくわからない事だらけで。でも、覚えておいてね。貴女の相手はハンサムではなく蓮河さんよ」

 それだけ言うと、女性は踵を翻して、足早に去って行った。

 呆然と夜の中に取り残された麻也。しばらくして、重い足取りで帰ろうとした時だった。ゆらりと、塀の中から、あのシルクハットの紳士が、初めて出会った時のように出現したのだった。

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