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ハンサム・ザ・キャット~愛の因数分解~ 〈31.アインシュタインの法則 その1〉

 年の頃なら三十代。ナイスボディをぴっちりとした黒いセーターとタイトスカートに身を包み、白衣を無造作に引っ掛けたブルネットの女性が、勢いよくドアを開けて入ってきた。きつそうな瞳にイライラが取り付いている。

「ディック! なんなのよ、あの坊やは。ちっとも薬が効かないじゃないの。もう少しで殺してしまう所だったわよ」

「なにっ? それで、彼は大丈夫なのか?」

「ええ。今はもう状態は落ち着いているわ」

「それは良かった。しかし、効かないとは一体、」

「生まれつきあの薬の代謝酵素活性が高いのか、それとも訓練したのか、どちらかね。薬効濃度と危険致死濃度が近くなっているのよ」

「頭の方は大丈夫なのか?」

「すぐに処置したから影響は殆どないと思うけど。ねぇ、ディック」

 女性はディックに、つ、と近づいて、ディックの肩に手を置いた。

「私の方法を試してみない? 今までに失敗した事なくてよ」

 目に異質な欲望をきらめかせながら、耳元でささやくように言って、ディックの肩先から肘まで指先でつうっとなでた。ディックはぞっとしたように身を引いて言った。

「いや、それには及ばない。大切なコマだからな。壊れては困る」

 ディックは嫌悪の色を隠さず、憮然とした表情の女性をその場に置いたまま部屋を出た。

 尾之多博行がベッドの上で目を覚ますと、ディックが心配顔で覗き込むように見ていた。

 博行の体や手足はベルトでベッドに固定されていて、身動きが出来ないようになっていた。

「気分はどうだね?」

「良くありません。頭が少し痛い」

「悪かったね。君がどこかの秘密組織の一員かどうか知る必要があったのでね」

「頭痛と引き換えに、身の潔白が証明されたって所ですか」

「いや。どうやら君にはあの薬は効かなかったようだ」

「それで、これからどうするつもりなんですか?」

「唇から血が出ているね。あいつに噛まれたのかな? あいつに任せて正体を吐かせることも出来るんだが、」

 と、博行の様子を窺う。博行はふふっと鼻の先で笑って言う。

「正体なんてありませんよ。僕は僕でしかない。折角協力しようっていう貴重な科学者をそういう風に扱うのは、CIAのやり方とは思えませんね」

「君は月の石の事を知っていたのに知らないふりをしていたな」

僕も科学者のはしくれですからね。月の石が、扱い方によっては非常に危険な物だって事を知っている以上、下手に話して協力するわけにはいきません」

「科学者の良心ってやつかね? だが、協力する気になった。何故だ?」

「これ以上犠牲者を出さないためです」

「では研究のデータをすべて提供してくれるという事でいいのだな?」

「家捜しはまだ済んでいないんですか?

「家捜しから得たデータでは、月の石の分析は済んでいるようだったな。我々の精鋭の科学者が総出でかかって、多くの犠牲者まで出して、分かっていないというのに」

「それ、褒めてもらっているのかな?」

「しかし、そこから先のデータが途中までしか見つからなかった」

「そうでしょうね。僕の頭の中にしかない部分もありますから」

「完成しているのか?」

「理論的には」

「君の協力を得る事が出来て嬉しいよ、博行。VIPとまではいかないが、協力をしてもらっている間は客員の扱いをさせてもらうよ」

 そう言って、博行を固定しているベルトを外した。

「必要な物があったら何でも言ってくれたまえ。但し、外部への連絡は必ず我々を通してもらう」

 ディックは部屋を出ると、幹部に報告に行った。

 CIAの秘密の研究所に軟禁状態になった博行は、月の石を作る事になった。

「君と僕、どこかで会った事がある?」

 研究所に顔を出した、エキゾチックな雰囲気を持つ女性に、博行は聞いた。

「一度出会った美人の事は全部覚えているつもりだけど、君のような美人にどこで出会ったか思い出せないなんて、僕も落ちたもんだな」

「ふふっ。会った事あるわよ。私の方は覚えているわ。でも、その時はこんな格好じゃなかったから、きっとイメージが分からないのよ」

「ふぅん。白衣が似合うね。何を着ていても似合うと思うけど、その時はどんな格好だったのかな。名前は?」

「サラ。サラ・ミュウよ。博行君」

「サラ。僕の名前を覚えてくれているなんて、光栄だ」

 そう言って、握手しようと手を差し出した。

「ふふふ。でも、お付き合いしようなんて考えないでね」

 サラが握手し返すと、博行はその手をそのまま引っ張って、サラを側に引き寄せた。

「つれない人だね」

 博行はサラの耳元に口を近づけると、小声で囁くように聞いた。

「君が扉を開ける願い事をするって聞いたけど、本当?」

「そうよ」

 サラも囁くように答える。

「何時?」

「一週間後の満月の夜に」

「陽と月とはどういう関係?」

「さあ。共通するのは扉の向こう側の人達ってとこかしら」

「君は向こう側の人間じゃないの?」

「ふふっ。そう見える?」

 そう言うと、サラは博行の側から身を離して、

「月の石、出来るといいわね。がんばってね」

 エキゾチックな謎めいた微笑を浮かべながら、身を翻して軽やかな足取りで研究室を出て行った。

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ハンサム・ザ・キャット~愛の因数分解~ 〈30.扉の向こうへ その2〉

 幸坂江莉果婦人が玄関を開けると、設楽怜侍がハンサムを抱きかかえるようにして立っていた。ハンサムを見ると、頬骨のあたりに殴られた後のような痣があり、目の周りは泣きはらした後のように真っ赤で、瞳は魂を持っていかれた人間のように虚ろに輝きを失っていた。

「月影さんっ! 麻也はっ? 麻也はどうしたんですかっ?」

 ぐったりと力なく、人形のようになっているハンサムを、それでも胸を掴んで問いたださずにはいられない江莉果。

「幸坂麻也さんは、まだ行方不明のままです」

 無言のまま揺さぶられているハンサムに代わって怜侍が答えた。江莉果はキッと怜侍の方を見た。その眼光にタジタジとなった怜侍が、

「僕はこれで失礼します」

 と言って、去ろうとする、その腕を、江莉果がハッシと掴んだ。

「ちょっとお待ちになって。家に上がっていってくださいな」

「え? いや、僕は、」

「月影さんを送ってきてくださったのに、お礼もまだでしたわ。上がってお茶くらい飲んでいっていただかなくては」

「あ、どうか、お気遣いなく」

 掴まれた腕を払って行こうとしたが、女の細腕とは思えないような力で、がっきりと掴まれたままだ。

「いいえ。上がっていただきます」

 有無を言わせない迫力のある江莉果に、仕方なく、怜侍は腕を掴まれたまま応接室に通されて、ソファに座らされた。

「今、お茶を持ってきますから、お楽になさってね」

「は、はあ」

「月影さんもここに座って、設楽さんの相手をしていてね」

 そう言って江莉果は、ドアを閉めて部屋を出て行った。

 ハンサムは言われるままソファに座っていたが、相変わらず黙ってあらぬ空間を見つめたまま。居心地の悪さにもぞもぞする怜侍。しばらくすると、紅茶とクッキーの盛られた皿を江莉果が運んで来た。

「あ、あの、どうかお構いなく」

「あなた、月影さんのガードを頼まれていただいていたのよね」

 江莉果の目がキラーンと光る。

「それで、今日はどんな事件が起きたのかしら?」

「えっ?」

「月影さんの顔にある痣は殴られた後ですわね? また、何者かに襲われかけたのじゃなくて?」

「そ、それは、あの、」

「月影さんが襲われたのと、麻也の行方がわからなくなったのには繋がりがあるはずだわ。はっきりと説明していただきます」

「あ、あの、僕はただ、月影君が襲われかけたのを助けただけで、その、他には何も」

「では、どこで、誰が、何のために、どうやって襲ってきたのですか?」

「あ、あの、ですから、僕は、」

 しっかと怜侍の目を見つめたまま離さない江莉果の気迫に、怜侍はただただ押されていた。冷や汗をかきかき答えに窮している時、玄関のチャイムが鳴った。

「ほぉう。これは珍しい御方が先客だね。月影のガードマンの設楽君だったね?」

 矢城刑事が応接室に入ってくると、怜侍は腰を浮かしかけた。

「僕はこれで失礼します」

 と言って部屋を出ようとすると、江莉果と矢城の両人が、怜侍の腕を両側から挟むように掴んだ。

「そう急がんでもいいじゃないか」「そう急がないでくださいな」

 二人が同時に言って、二人して怜侍をソファに押し戻した。

「いろいろと聞きたい事があるんだがね」

 と、矢城が怜侍の隣に座る。ふと、ハンサムの様子に気がついた矢城が、

「月影。どうした? 何があったんだ?」

 と、ハンサムの方に気を取られると、その隙に怜侍がソファから立ち上がって、部屋を出て行こうとした。が、ドアの所で両手を広げてとおせんぼをしている江莉果婦人がいた。

「あなた。麻也の行方を知っているのでしょ? それを聞くまでは絶対に帰しません。座っていただきますっ」

 怜侍が進退窮まって困りきっているところへ、ハンサムが独り言のように、口を開いた。

「麻也は異世界へ行ってしまったんだ」

「なにっ?」「なんですって?」

「双世界から来た人に連れられて、消えてしまったんだ。何時戻ってくるか分からないんだ」

「それは、どういう事なんだ?」「それ、どういう事なの?」

「すみませんっ。麻也さんのガードをしていた者が失敗したんです」

 覚悟を決めた怜侍が、頭を下げて、話し始めた。

「なんと! 双世界に連れていかれたとは!」

「麻也は戻してもらえると言っていたんですね?」 と、江莉果。

「はい。でも、何時になるか見当もつきません」

「それで、捕まえた三人の男達はどうなったのかね?」 と、矢城。

「さる所に監禁されて、事情聴取を受けていると思います」

「さる所? 警察ではないんだな?」

「・・・はい」

「そいつらに話を聞きたいのだが、どこかね?」

「僕は知らないんです」

「ボスに交渉してみてくれんか?」

「・・・」

「君らは公安からマークされている。すでに公安が動き出しているかもしれん。彼らが公安に連れ去られる前に話を聞きたいんだ」

「・・・」

「どこかの秘密結社と関係がある事は分かっている。私は口が堅いのが自慢なんだがね」

 と言うと、怜侍は江莉果の方をちらと見た。

「聞きに行くのは私だけだ。君は私だけを連れて行ってくれればいい。他の者には私から必要最小限の事だけを伝えよう。ボスと交渉するだけでもしてくれないか?」

「・・・わかりました。では、少し待っていてください。外で連絡してきますから」

 怜侍が出て行くと、江莉果が矢城に聞いた。

「刑事さん。今度の事はあの月の石と何か関係があるんじゃありませんか?」

「奥さん。ご心配は分かります。しかし、あの月の石には、危険な団体がうじゃうじゃと関係しています。知らない方が安全な事もあるんですよ。麻也さんの事は私に任せていただけませんか?」

「でも・・・」

 その時、そばで聞いていたハンサムが、突然顔を上げて言った。

「そうだ! 月の石があったんだ!」

 矢城と江莉果が顔を向けると、ハンサムは精気が戻ったように瞳を輝かしていた。

「ねえ、次の満月は何時なの?」

「おい、君、まさか、」

「僕、麻也のいる世界に行きたい。月の石に願い事をすればきっと行ける。麻也と一緒の世界にいたいんだ。麻也と一緒にいて、一緒に帰ってくればいいでしょ?」

「そんな事が出来るんですか?」

 驚き、いぶかしむ江莉果。

「し、しかし、君、そんな、」

「双世界へ行く扉を開けてもらえばいいんだ。ね、次の満月は何時なの?」

 言葉を呑む二人、意気軒昂となるハンサムだった。

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ハンサム・ザ・キャット ~愛の因数分解~ 〈29.扉の向こうへ その1〉

 矢城刑事は、麻也からの留守電に気がつくと、すぐに電話をかけた。しかし、何度かけても通じない。不安を感じた矢城は麻也の家に電話をかけた。

「いいえ、まだ帰っておりません。何かあったのでしょうか?」

「私の電話に留守電が入っておりまして、学校を出る所で怪しげな男達に襲われかけたようです。無事だったと言う事ですから大丈夫と思いますが、今は携帯電話が通じない所にいるようですので、もし連絡があったら、私の方にも電話をいただけませんか?」

「襲われかけた、ですって? 一体何が起きているんですか? 刑事さん、また、月影さんの事件と関係があるのではありませんか?」

「いや、まだ、そうとは限りませんが、詳しい事情を麻也さんから聞きたいと思いまして」

「分かりました。お電話ありがとうございました」

 電話を切ると、麻也の母の江莉果は胸騒ぎがして、ハンサムに電話をかけた。長いコールの後にハンサムがでた。

「もしもし、麻也? 大丈夫?」

 息せき切ったようなハンサムの声に、江莉果の胸は波打った。

「えっ? 矢城刑事さんから電話が?」

 江莉果の説明に緊張する様子が伝わる。

「一体どうなっているの? 月影さん。麻也が襲われかけた事とあなたが睡眠薬を飲まされた事は関係があるの?」

「僕にはよく分かりません。僕、ちょっと取り込んでいたからずっと電話に出られなくて。麻也からのメールが入っているかもしれないからチェックしてみます。ちょっと待ってください」

 ハンサムからの電話を待ちながら、江莉果は矢城刑事が来ていた時の事を思い返していた。今テレビで騒いでいる〔月の石〕。刑事さんは否定していたけど、もしかすると何か関係があるのかもしれないわ。なにしろ、月影さんの周りは謎で一杯だし。

「お母さん。麻也からメールが入っていました」

「それで、どんな具合だったの?」

「三人の男が麻也を連れ去ろうとしたので、ぶっとばして逃げたんだって。三人はどこかへ行ってしまったけど、何者か分からないって。それで僕にも気をつけるようにって。万が一の事があるといけないから、矢城刑事さんにも留守電を入れておいたんだって。今から帰るけど、メールに気がついたら電話してって」

「その三人に心当たりはあるの?」

「ううん、全然ない。それで、今、麻也の携帯に電話したんだけど、電波が届かない所にいるって言ってたから、メールを残しておきました。電話出来るようになったらすぐに電話してって。でも、電波が届かない所って、どこかな?」

 ハンサムの質問に、不安が押し寄せる。そういえば、今は大抵の所で携帯電話の電波が届くわ。帰り道で電波が届かない所があったかしら?

「もしかして、また、どこかで襲われているのかな?」

 不安に溢れたハンサムの言葉に江莉果の不安も増す。返事を待たずにハンサムが言った。

「僕、麻也の帰り道をたどって探してみます」

「ええ、そうしてちょうだい。お願いね」

 電話を切ると、ハンサムは設楽怜侍が待っている車の方に行った。

「麻也が行方不明になっているかもしれない。僕、麻也を探しに行かなくちゃ」

「行方不明? ちょっと待って。あっちの方のガードに聞いてみるから」

 電話をかける怜侍の顔が険しくなる。

「すまない。しくじったようだ」

「しくじったって? どういう事?」

「麻也さんは連れ去られてしまったらしい」

「えーっ! さらわれたって、どこへ? 追いかけて連れ戻せないの?」

「異世界の人間と一緒に、異世界へと消えてしまったそうだ」

「異世界へ? 麻也が!? そんな・・。それじゃ・・」

 ハンサムの顔が真っ青になる。

「すまない。二人もいながら、阻止できなかったようだ」

「どうして麻也がさらわれなきゃいけないの? 異世界なんかに! ねえ、どうして?」

 怜侍の肩を掴みかかるように、揺さぶるように、ハンサムが聞く。怜侍の表情も曇りきっている。

「じゃあ、じゃあ、麻也は、麻也はもう戻ってこれないの?」

「彼らが聞いた話では、戻ってこれなくはなさそうなんだが・・」

「どういう意味?」

「麻也さんはそいつらに、双世界の、ダルスというのが、彼らが来た世界の事らしいんだが、その世界を救う手助けを頼まれていたらしい。それが終われば帰してもらえるような事を言っていたそうだ」

「じゃあ麻也は帰ってくるんだね?」

「彼らはそう言っていたそうだが・・」

「何が問題なの?」

「どうも計画的に連れ去ろうとした節があるそうだ。手助けというのが本当の理由かどうかも分からない」

「僕は、僕はどうしたらいいの?」

「異世界に行けない以上、待つしかない」

「待つって、どのくらい待てばいいのかな?」

 震える両手を合わせて、祈るような気持ちで聞く。

「分からない。本当にすまない」

 両手で口元を押さえて、目を潤ませるハンサムの肩に、怜侍が優しく手を置いた。

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ハンサム・ザ・キャット ~愛の因数分解~ 〈28.糸 その2〉

「ヒューッ」

 設楽雄二は小さく口笛を吹いた。

「よくやるね。あのお嬢さん。ガード用無しだぜ」

 大学の女子トイレから出てきた麻也は、急いでロッカールームに行こうとして、建物から出た所を、大学生を装った三人の男に取り囲まれそうになった。が、持っていた鞄を一人の顔面に叩きつけ、もう一人には肘鉄をみぞおちに、三人目にはヒールキックを浴びせて、さっさと走って逃げ出した。

「ちょっと、見とれてなんかいないでよ。後を追わなくていいの?」

 少し離れて、女子学生を装って麻也のガードをしていた設楽綾が、さりげなく雄二に近づいて声をかけた。二人で三人の後を追っていく。麻也がロッカールームのある建物に入ると、三人は諦めたように建物から遠ざかって行った。

「飼い主はキャンパスから校門方面だな。俺は先回りする。後は頼んだぞ」

 そう言うと、雄二は一人先に走り去った。

 麻也はロッカールームの中で矢城刑事に電話をかけた。残念ながら電話は通じず、仕方がないので留守電にメッセージを入れておく。

 それからハンサムにもかける。ところが、こちらはコールしているのに電話に出ない。ハンサムは今は仕事中だけど、携帯はいつも持っているはずなのに。こんなに長くでられないなんて、彼の方にも何かあったのかしら。不安に思いながら、仕方なくメールを打っておく。

 携帯をしまうと、様子を窺いながら建物を出る。三人は諦めたようだが、またいつ何時襲ってくるともしれない。ガードがどこにいるのかは分からないけど、校門の所には守衛さんもいるはずだし。と、思いながら、キャンパスの並木道を校門へと帰りを急いだ。

 並木の大きな銀杏の木の所に来た時だった。まるで、銀杏の木から出てきたかのように、ゆらっと、三人の人影が現れ、行く手に拡がった。

 麻也は意表を突かれて、立ち止まって三人を見た。

 裾の長いゆったりとしたギリシア時代のような衣装。頭に巻かれた布。肩から腰にかけてドレープを作っている肩掛け付のような帯。足に履いているのは靴ではなく、編み上げの紐で結わえられたサンダルだ。

 まるで遠い異国の人間のように、目鼻立ちの整った、穏やかそうな顔つきの、しかし、切羽詰ったような雰囲気を持つ男達だった。男達は麻也を襲おうとしている様には見えなかった。

 雄二が校門の方角から構えて近づいてくる。綾は麻也の後方から、ゆっくりと物見のように、三人の様子を観察しながら通り過ぎようとする。

「貴女がマヤさんですね。マヤさん、お願いがあります。私達と一緒に来ていただけませんか?」

 年長と思われる髭をたくわえた男が、丁寧な日本語で麻也に話しかけた。

「あなた方は一体、何者なのですか? どうしてわたしを知っているのですか?」

 さっきの男達とは明らかに様子が違うと思いながら、麻也は構えを解かずに聞く。

「私達はダルスから来ました。この地球の双世界にあたる所です。私の名はユクリ。この者はトール。そしてミクルです」

 三人はそれぞれ片手を胸に当てて、うやうやしく礼をした。

「貴女の事は神の使いから聞きました。貴女が我々の世界を救える唯一の人間だと」

「私達の世界は、今、崩壊の危機に瀕しているのです。どうか、貴女の力で救ってください」

「貴女しか救える者はいないのです。私達と一緒にダルスに来てください」

 三人は口々に麻也に話しかけた。

「ちょっと待ってください。いきなりそんな事を言われても、わたし、困ります。神の使いって誰なのですか? もしかして、」

「とにかく一度我々の所に来てください。そして詳しい話を聞いてください」

「どうかお願いします。救っていただいた後には、必ずこの世界にお返しします」

「私達の命運は貴女の肩に掛かっているのです」

 口々に懇願する三人の男達。麻也が逡巡している時だった。先ほど麻也を襲った三人が後方から走りよって来た。

「危ない! マヤさん!」

 トールと呼ばれた男が、麻也に注意を促し、手を取った。

「こちらへ!」

 他の二人も、向かってくる三人の男達から麻也を庇うように、麻也を囲むように、腕を取った。

 麻也は後ろの三人を返り見ながら、双世界の三人に手を取られ、引っ張られるように、彼らが出てきた銀杏の木の隣の、木の所に連れてこられた。

 ユクリが麻也の腕を掴んだまま、木の幹の中に腕を差し入れる。手は何の抵抗もなく、すっと幹の中に吸い込まれ、手の周りに渦のように木の模様が揺らいで拡がった。

 綾が危機を感じて、双世界の男達のうちの一人、ミクルの腕に掴みかかった。ミクルは腕を取られながらも、麻也の体を庇うように踏ん張る。その時雄二が到着して、もう一人のトールを後ろから羽交い絞めしかけた。

 そこへ、先ほどの三人が追い着いた。三人は雄二と綾に襲い掛かってきた。

 麻也は、雄二と綾の顔こそ知らなかったが、ガードであると瞬時に分かった。そして、渦に引き込もうとする腕を振り払おうとした。が、しかし、その時には既に腕が半ば渦の中に入り込んだ後だった。引っ張り出そうとしたが、ものすごい力で引き込まれ、抵抗むなしく体全体が吸い込まれていった。

 後方から来た三人組を倒した雄二と綾は、渦の中に飛び込もうとしたが、時すでに遅く、麻也と双世界の三人が吸い込まれていった後、渦が集束して消えてしまった後だった。

 雄二は、木の幹に思いっきりぶつけてしまった手を痛そうに振りながら、綾と顔を見合わせた。

「くそっ。しくじっちまったな。こいつらもあいつらの仲間なのか」

「そうに違いないわ。タイミングが良すぎよ」

「異世界ってのは本当に存在するんだな」

「あの消えた三人は双世界から来たと言ってたわよ」

「ボスに連絡しなけりゃ。こいつらの後始末がやっかいになりそうだな」

 雄二は携帯電話で、メールを2ヶ所に送信した。

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ハンサム・ザ・キャット~愛の因数分解~ 〈27.糸 その1〉

「よいか、我々が存在する世界は常に動いておる。つまり、空間と時間、生と死、物質と非物質を含める存在自体が、不安定な安定の上に成り立っておるのじゃ。時として、流動するエネルギーの流れの偏りが、存在のバランスを脅かす。我々はそれを修復するために糸を紡がねばならぬ。紡いだ糸で結びを作らねばならぬ。その作業によって、バランスの崩れによって出来た穴を塞ぎ、永遠の流れが滞らぬようにしておるのじゃ。分かるかな?」

「月の石が、世界のバランスの崩れを治す、糸のような物という事なのですか?」

「当たらずとも遠からずじゃ。我々は仮にその石のような存在をジュムと呼んでおる。ジュムはジュムラを産み、さらにジュムニを創り出す。ジュム二によってジュムルが発動する時、結びが生まれる」

「よく分かりませんが、ユールは、ジュムルの発動の仕方によっては地球が壊れる可能性もあると言っていました。どういう事なのですか?」

「この惑星はほかの多くの世界に存在する惑星と同じく、一つのバランスの存在じゃ。壊れても結びが生まれれば、永遠は継続される」

「そんな! この地球には、何十億という人間と、数知れない生物たちが住んでいるのですよ! 壊すなんて、ひどいわ!」

「もとより壊すつもりはない。壊れるとしたら、それは、ま、言ってみれば、運、とでもいった所じゃな」

「そんな! 簡単に運だなんて! あなた方だってどこかの地球に住む、同じ人間なのでしょう?」

「当たっているとも、当たっていないとも言える」

「どういう意味ですか?」

「地球に住んでいる訳ではない。また、人間と限定される訳でもない。お前が人間であると同時に糸であるようにな」

「わたしが糸ですって?」

「そうじゃ。ユールという糸車によって紡がれた糸じゃ」

「わたしは、月の石に願い事を叶えてもらいましたが、その事が糸になるという事なのですか?」

「そうではない。お前がジュムルを発動させるための糸に選ばれたという事じゃ」

「でも、さっき、ジュムニがジュムルを発動させるとおっしゃいましたよ」

「その通りじゃ。ジュムルは結び目のような存在。お前は結び目を作るための糸に選ばれたのじゃ」

「そう言われてもさっぱり分かりません」

「そうじゃろうのう。糸に糸の自覚は必要ない。糸と呼ばれて初めて糸になるようなものじゃ」

 老人は、ひとり納得したように言って、白いアゴヒゲを撫で下ろした。

「ユールに初めて出会った時の事を覚えておるか?」

「ええ。一番初めに〔月の石〕を手に入れた時の事ですね」

「いいや。それよりずうっと前の事じゃ」

「ずうっと前?」

「どうやら記憶を封印しておいたようじゃな」

 老人は持っていた銅色の杖を軽く振った。杖の先に付いていた奇妙な宝石が七色に光りだした。光りは急激に白色へと溶け込み、一瞬、辺りを何もない程に明るく照らしたと思うと、次の瞬間には収束して元に戻った。

 麻也は目がくらくらして瞬きをした。すると、幼い時の映像が去来した。

「わたし、前に、ユールに出会っているわ!」

 あれは、五つか六つの頃。兄と鬼ごっこをして遊んでいた時だ。ひとり兄とはぐれて、見知らぬ場所で戸惑っていると、どこかの紳士が帰る方角を教えてくれた。

「でも、あの時以来、月の石の時まで、彼に会った事はないわ」

「会った事が始まりなのじゃ。彼はお前のプログラムに介入し始めた」

「わたしのプログラム?」

「言ってみれば、人形を操るようなものじゃな」

「仰っている事がよく分かりません。わたしが彼の操り人形なら、一体どうしろと言われるのですか? どうすれば世界を救う事が出来るのですか?」

「道は二つある。意思を持つか、持たぬか、じゃ」

「〔いし〕とは、どの〔いし〕の意味でしょうか?」

「自分の心のままに動くかどうか、という事じゃ」

 麻也はちょっと考えてから言った。

「では、そうっとしておいてくれませんか? そうすれば、わたしは、わたしの意志のままに動く事が出来ます」

「うむ。建前はそうなのじゃが、わしにも少々意地があってな」

 老人はそれまでとは少し違って、人間じみた、心の中を吐露するような調子で言った。

「?」

「ふむ。いや、この事は忘れてくれ」 

 老人は、人間臭い雰囲気を払い落とすように首を振ると、それまでと同じ、怜悧で感情のない顔つきに戻った。

「ユールのやり方をどう思う?」

「やり方と言われても、わたしには分かりません」

「月の石のような存在は、扱いを誤れば、世界に混乱を巻き起こす。現に大きな災厄が降りかかろうとしておる。あのような玩具として自由に扱わせるべきではないのではないか?」

「でも、かれは、自分で決めた事ではないと、それが使命だと言っていました。誰かに命令されたのではないのですか?」

「自分の行動を偽って言っていたとしたら、どうする? わしは、この世界の地球の危機を最小限に留める為に、ジュムルの発動を双世界の地に移動させようと思う」

「双世界?」

「そうじゃ。地球と同じポイントにある、別の世界じゃ。地球の裏側の世界とでも言ったらよいかの。表裏一体。つまり、どちらでジュムルが発動しても世界は救われるのじゃ。しかし、双世界でジュムルを発動させるためには、お前を双世界に連れて行く必要があるのじゃ」

「わたしを?」

「お前が双世界に来てくれれば、この地球が壊れる危険性もうんと少なくなる。お前の家族も、人類も、多くの生物達も、助かる可能性が高くなる」

「でも、そうしたら、双世界の方に危険が及ぶのではありませんか?」

「それはない。いや、無いように出来る。地球とは少々成り立ちのルールが違う世界なのでな。どうじゃ、一緒に来て手助けしてくれぬか?」

「双世界に行けば、この世界に戻れなくなるのではありませんか?」

「役目を果たしたなら、戻っても問題はない」

「それで、役目というのは、具体的にはどういう事をすれば良いのですか?」

「それは、今は説明できない。向こうに行けば、そのうち理解できる事だ」

「説明もなしに行けと言われても困ります。わたしに出来る事かどうかも分からないのに」

「言ったであろう。行かねば分からぬ事もあると。心配はいらぬ。お前にしか出来ない事なのだ」

「でも、・・・」

 麻也は考え込んだ。老人がユールの言葉が偽りかもしれないと言ったのと同じように、今ここで、老人の言葉が総て真実であると信じる根拠は、何も無い。

 それに、異世界や月の石のような不思議な存在が真実であると分かっていても、自分が何か特別な存在とは、とても思えない。まして、異世界へと足を踏み入れる恐怖さえある。

 麻也は老人を見つめた。冷徹な仮面のように見えるその顔には、今はどこか胡散臭い雰囲気まで感じられる。

「すみません。今は判断できません。しばらく考えさせてください」

「そんな余裕はない。時が経てば危険度は高くなる。それに、」

 と、言葉に間をおいて、睨むように、凄むように言った。

「あの猫から変身した男に大きな危険が迫っているのだぞ」

 麻也はハッと胸を突かれて、表情が強張った。少しの時の後、今度は、麻也の方が睨むように、きっぱりと言った。

「そんな風に、脅しで無理やり連れて行こうとする者を、信じる事は出来ません。ドアを開けてください!」

 二人、にらみ合ったまま、しばらくの時間が通り過ぎる。

 ややあって、老人の顔から厳しさが消えて、ほのかに微笑らしきものが浮かぶ。

「分かった。では、行くがよい」

 そう言うと、回れ右をして、異世界への扉の中に手を伸ばし入れる。老人の体がすうっと溶け込むように消えると、扉は中心に向かって波を打つように集束され、消滅した。

 すると、まるで、滞っていた時間が再び流れ出したかのように、研ぎ澄まされた感覚が緩んだ。麻也がドアのノブを回すと、ドアは難なく開いた。

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ハンサム・ザ・キャット ~愛の因数分解~ 〈26.異世界への扉 その2〉

「お嬢さん、ちょっとよろしいかな?」

 手を洗っていた麻也が、びっくりして振り向くと、白い髭の仙人のような老人が後ろに立っていた。

 ここは学校の女子トイレの洗面所。麻也が入った時には誰もいなかった。誰かが入ってくる様子もなかった。どころか、先程までは人の気配もなかった。

 一歩後ろに引いて、構えながら聞く。

「何か御用ですか?」

「月の使者と出会った人間というのは、お前じゃな?」

「わたしはそんな人は知りません。ここは女子トイレです。ここから外に出てお話しませんか?」

「ここが何処かは承知の上じゃ。他の者に邪魔されては困るのでな」

「わたしは、あなたがお探しの人ではないと思いますよ」

「お嬢さん、満月の夜、出会った者がおるのではないか?」

 満月と言う言葉を聞いて、麻也の心の中にレベル3の警鐘が鳴った。

「あなたは一体誰なのですか?」

「わしの名はリュージュ。陽の使者と呼ばれる。月の使者に出会った者を探しておる」

「さっきも言いましたが、わたしは月の使者と呼ばれる人は知りません。人違いです」

「そいつはユールと名乗らなかったか?」

 麻也の瞳が大きく見開かれた。どうして彼の名が出てくるのだろう。この人は一体何者なのか。彼とどういう関係があるのだろう。もしや・・・。

「その様子ではお嬢さんに間違いなさそうじゃな」

「いいえ。わたしは月の使者なんて人は知りません。失礼します」

 とにかく、彼の事は知らない事にした方が良さそうだと判断した麻也は、老人の横をすり抜けて、トイレを出ようと入り口のドアを開けようとした。ところが、ドアのノブがビクとも動かない。

「逃げる必要はない。ずっと前からお前を探しておったのじゃ。危害を加えるつもりはない。安心せよ」

 それでも麻也がドアを開けようともがいているのを見て、

「今、そのドアには空間ロックが掛かっておる。どうやっても開かんよ」

「空間ロック?」

「そうじゃ。扉の存在を知られては困るのでな。誰も入ってこんように、ロックしてある」

「扉?」

「異世界への扉じゃよ」

 麻也はドアを開けようとする手を止めて、その老人を見つめた。やはり、この人は異世界の通路からここへ来たというのか。ユールを知っているのは、同じ異世界の人間だからなのか。

 老人の後ろに目をやると、トイレの個室のドアの前の辺りが、まるでその前に、屈折率の歪んだガラスの壁があるように、奇妙に揺らめいて見えた。おそらく、あれが異世界への扉なのだ。

「ふふ。やはりお嬢さんじゃな」

「わたし、本当に月の使者なんて知りません」

「しかし、異世界の事は知っておるようじゃ。どうやってそれを知ったのかな?」

「それは・・・」

「ユールに出会ったのであろう? 彼は月の使者と呼ばれておるのじゃ」

「あなたは陽の使者とおっしゃいましたね?」

「そうじゃ。我々は、そう、この世界の言葉を借りるなら、ライバル同士とでも言ったところかの」

「わたしにどういう用事があるのですか?」

「お前は知りたくはないか? なぜ、彼が月の石をこの世界にばら撒いたのか」

「知りたくありません。わたしはただ、普通の生活がしたいだけです」

「ほう。この世界が直面している危機を放っておいても平気というのか? この世界を救う事が出来るのがお前一人であると知ってもか?」

「わたしと世界の危機と一体どういう関係があると言うのですか?」

「ユールがお前を選んだからだ」

「わたしがユールに選ばれた?」

「そのとおり。彼と話したという事がその故じゃ」

「そんな事がどうして世界の危機に繋がるのですか?」

「それにはまず、この世界の成り立ちを知らねばならぬ。わしと共にくるがよい。扉の向こうで詳しく話そう」

「わたし、この世界から離れたくありません。この世界でその話を聞くことは出来ないのですか?」

「百聞は一見にしかずじゃ。向こう側に行った方が手っ取り早く分かる」

「では、この世界にいても、話を聞くことは出来るという事ですね」

「だが、説明で分かるものではないかもしれん。行って、その目で見た方が分かり良いじゃろう」

「行かなければ聞けないのであれば、聞かないままで構いません」

「しかし、聞かねば後悔する事になるやもしれんぞ」

「では、今、ここで聞きます」

「どうしても行きたくないと言うのか?」

「はい。必然ではないようですし」

「むぅ。なかなか言う娘じゃのう」

 老人は麻也を異世界へと連れ込むのをあきらめて、話しだした。

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ハンサム・ザ・キャット~愛の因数分解~ 〈25.異世界への扉 その1〉

『今、世間を騒がしている〔月の石〕ですが、なんと、異世界から持ち込まれたという情報が入りました』

『異世界ですか? まるで、SFのようですね』

『それが、実際に異世界の人と接触したという人物がいるのです。では、そのインタビューの様子を聞いてみましょう』

 テレビの情報番組のアナウンサーの女性が話すと、テレビにカセットテープが回る映像が映り、声は変えてあります、という、テロップが流れた。

『はい。その人は何もない空間から現れたんです』

『見間違いではないのですか?』

『はい。絶対に見間違いではありません。実際に何もないところから現れたんです。本当にびっくりして、しばらくは固まっていました』

『その人はどんな感じの人でした?』

『シルクハットをかぶって、燕尾服とマントを着た、紳士のような格好をしていました』

『それで、その人はあなたとしばらく話してから、消えていったということですね?』

『はい。言葉つきも礼儀正しくて、人に危害を与えるような感じではありませんでした』

『どんな事を話したのか教えてくれますか?』

『その人がどこから来たのか、〔月の石〕がどのように願い事を叶えるのか聞きました』

『どこから来たと言ったんですか?』

『ヴォルーラという所だそうです。この世界から遠く離れた場所だそうです』

『と、言いますと、宇宙から来たという事なのでしょうか?』

『いいえ。宇宙からではないようです。別の空間に存在する異世界のようです』

『異世界ですか? 信じられないような話ですね』

『はい。わたしも半信半疑ですが、とにかく、その人は何もない空間から現れて、何もない空間へ消えていきましたから、それが事実だったのではないかと思います』

『しかし、どうやって空間から出たり入ったり出来るのでしょうね?』

『分かりません。その人は〔通路〕と呼んでいました。一定の時間の間だけ開いて、閉じてしまうような、そんな仕組みがあるようです』

『で、願い事を叶える方法は、どういう風に言っていました?』

『聞いたことのない、奇妙な名前の法則を応用しているとか言っていました。空間の歪みの許容範囲なら、物質の変換に係わる願い事はたいてい叶うそうです』

『あなたはその人に出会う前に、〔月の石〕の出るガチャガチャの器械を見つけたという事でしたね?』

『はい。その紳士はガチャガチャの器械を回収しに来たようでした』

『ガチャガチャをしたんですか?』

『はい』

『それで、〔月の石〕は出ましたか?』

『いいえ。残っているカプセルを全部出したのですが、出ませんでした。それで、帰ろうとしたら、見知らぬ女性が近づいてきて、一回に一個しか入っていないと、教えてくれました。その女性は、自分が手に入れたのを見せてくれました』

『それは、どんな女性でしたか?』

『二十歳代くらいの、髪の毛が短くて、すらっとして背の高い人です。エキゾチックな感じの、モデルさんみたいな、綺麗な人でした』

『その石を手に入れた女性はどのような人だと思いますか?』

『私には分かりません。名前とか聞いたのですが、答えてくれませんでした』

『あのテロと関係があると思いますか?』

『そういった事は分かりません。女性が行ってしまった後で、突然、空間から人が現れて、びっくりしたんですが、その人がガチャガチャの器械を持ち運んでいこうとしたので、話しかけたんです。それで、先ほどの話を聞いたんです』

『その人が異世界から来た事や、〔月の石〕の願い事の叶え方を聞いたという事ですね。その人は、器械に中身を入れて、また持ってくるのは何時とか、何処へとか、言ってませんでしたか?』

『異世界の人は石を持ってくるのは今回が最後で、もう持ってこないと言っていました』

『では、〔月の石〕は、もう手に入らないという事なのでしょうか?』

『はい。そう思います』

 画面が通常のワイドショーに替わって、アナウンサーの女性が、相方の男性に話しかける。

『はい。という事なんだそうですが。本当に異世界の物なのでしょうか?』

『アメリカでは、〔月の石〕爆発事件は、何らかのテログループが係わっているという事で、大々的な捜査をしているようですね。犠牲者が六百人を超える大規模な惨事でしたからね。ただ、今の所、犯行声明はどこからも出ていないようです』

「この石の事を話した人って、麻也なの?」

 テレビを見ていたハンサムが聞いた。

「いいえ。矢城刑事さんがどこか他の人と相談して、役者さんを立ててお芝居を録音したみたい」

「ふうん。お芝居か。でも、麻也が言っていた事と同じだね」

「ええ。情報が公に流れてしまえば、情報を手に入れたり、隠すために、拉致されたりしないだろうって、考えてくれたみたい。情報源は誰でも構わないのよ」

「でも、この人達、信じていないみたいだよ」

「いいの。大事なのは、こういう事がみんなに知られてしまう事なの。特別な事でなくなればいいのよ」

「そうか。良かった。これで、麻也は安全なんだね」

「だと、いいんだけど・・」

「まだ、安全じゃないの?」

「ハンサムを狙っている人達が、他にもいっぱいいるかもしれないから、用心していた方がいいって、刑事さんも言っていたわ」

「僕の身元が不明だから、訳が分からないから、狙ってくるんじゃないかな。もし、僕が猫だったって言ってしまえば、麻也は安全になるんじゃない?」

「いいえ。それだけではもう無理だと思うわ。それに、そんな事を言えば、ハンサムはさらわれて、実験室の檻に閉じ込められて、研究対象になってしまうかもしれない。そうしたら、二度と会えなくなってしまうかもしれないわ」

「麻也と会えなくなるの? それは嫌だ。僕、絶対に言わない」

「ハンサム」

 麻也がハンサムの胸に頬を当てて背中に腕を回す。ハンサムが麻也の体を覆うように抱きしめた。

 その夜、二人はお互いが離れるのを恐れるように、身を寄せ合うようにして眠った。

「で、あちこちの団体さんの反応はどうなんだ?」

 矢城が公安の尾谷修に聞く。

「沈黙を守っている所が殆どだね。水面下での動きも変わりがない」

「ほう! どこもかしこも既に知っていたという事か? 知らないのは平和な日本だけだったのか」

「その日本にも、知っていたと思われる節のある団体さんが一つある」

「公安を差し置いてか?」

「リスト外の初めて見つかったとこだ。爆発事件の発表をリークしたのはそこらしい。活動内容がまだ不明な部分が多いグループだ」

「どこか外国の団体さんの子会社かね?」

「そうとは限らんが、外国と繋がりがあるのは確かだ。例の、君のお気に入りの月影のまわりに網を張っている、正体不明のグループとも、何らかの繋がりがありそうだ」

「どこかの財閥とも繋がっているとか?」

「そういった事はまだ判明していないが、何か知っているのか?」

「いや。ありそうなシチュエーションだから、聞いてみただけだ」

「他にも、CIAやあちこちと係わっている、奇妙な集団の存在があるらしい。こっちの方は皆目見当もつかん。CIAでさえ、一人のメンバーの特定も出来ていない、秘密組織らしい」

「ほう? もしかして、異世界の者の集団ではないだろうな?」

「可能性はある。上層部は最初、異世界に関して殆ど眉唾と思って相手にしてくれなかったんだが、ごり押しでCIAの線から洗った結果を見て、まだ信じられずにいる程だ。君に知らせてもらわなければ、万が一の時には大失態になる所だったよ」

「そいつらはこれからどうするつもりだろう?」

「CIAがその奇妙な集団と何かを企んでいるようだ」

「何かとは?」

「分からん。我々も全力を挙げて捜査中だ」

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ハンサム・ザ・キャット~愛の因数分解~ 〈24.石の波紋 その2〉

「それで、尾之多君は元気な様子でしたか?」

「ええ。これ、彼にもらったお土産よ」

 麻也が、博行からもらったチョコレート菓子を盛った皿を勧める。

「いただきます。これ、わりといけますね。僕も彼に会いたかったな。矢城刑事さんには、ここへ来る途中会ったんですけど、尾之多君には出会わなかったですよ」

「車で来てたからじゃない?」

「ところで、また、何かおかしな事件に巻き込まれたんだそうですね?」

 幸坂家を訪ねた森岡聡史は、ハンサムの異物混入事件の事を聞いた。しかし、〔月の石〕に関連した秘密は話されず、爆発事件については世間話で終わった。

 聡史は、〔月の石〕に関する事が話されなかったにも係わらず、二人の様子から、何か不明瞭なものを感じ取っていた。

 やはり何かある。刑事さんのあの様子といい、あの事件のほかにも何かあるんだ。僕を巻き込まないようにと思って言ってくれないんだろうけど。

 考え込みながら、聡史は帰途についた。

 聡史が帰っていった後、再び、博行が訪れた。

「えっ? 盗聴されていたんですって? どうしましょう!」

「言ってなかったけど、麻也にもボディガードをつけておいてあるんだ。麻也の腕が立つことは知っているけど、どんな奴らがやってくるとも知れないからね。だから、いざとなれば手助けしてくれると思うけど、麻也も油断しないようにね。異世界の話は矢城刑事さんに頼んでおいたけど、なるべく早く情報公開した方が安全だと思う。刑事さんとの連絡を絶やさないで」

「わたし、蓮河さんの名前を出してしまったわ。彼も狙われる危険性が出てくるわね」

「心配すると思って、彼にもガードをつけるように手配しておいたよ」

「ありがとう、尾之多君。それで、尾之多君の方は大丈夫なの? CIAに〔月の石〕を知っている事を知られてしまったわけでしょう?」

「僕の方は大丈夫。どうってことないよ。それより、麻也の方がいろいろと面倒な事になるかもしれない。妙な集団が近づくかもしれないから、十分注意して」

「分かったわ。ありがとう」

「月影。あの石の事だけど、このニセモノの石をカプセルの中に入れておいて、本物の石だけ別に、絶対に誰にも見つからないように隠しておいてくれないか?」

「いいけど。どうして?」

「持っている事を知られてしまったからね。石を欲しがっている奴が現れると思うから、その時はニセモノの入ったカプセルの方をそのまま渡すんだ。その方が安全だからね」

「うん。分かった」

「じゃあ、二人とも気をつけて」

 ニセモノの石を渡すと、博行は麻也の家を出た。後を見送る二人。博行は、車に乗り込もうとして、ふと振り向いて、麻也に言った。

「麻也。剣道部の退部記念の送り出し会の事、覚えてる?」

「ええ。それがどうかしたの?」

「いや。ただ、ちょっと思い出しただけ。じゃあ」

 麻也の家を後にした博行が、自分の部屋に戻ると、携帯電話のメール着信音が鳴った。メールをチェックすると、博行は樹菜に電話をかけた。

「僕だよ。もしかすると、例の事がパーティにバレているかもしれない。樹菜、気をつけて」

「何ですって?」

「ディックからすぐに帰るようにメールが届いたんだ。これからすぐに発つ」

「ヒロ君、待って!」

「大丈夫。どうってことないさ。紗矢、お土産喜んでくれたかな?」

「ええ、喜んでいたわ。ヒロ君、お願い、戻らないで!」

「そうはいかないよ。樹菜達のためにもね。麻也達の事、くれぐれも頼んだよ。じゃあ、元気で」

「ヒロ君!」

 電話を切ると、博行は旅行の支度を始めた。

 夜になって、蓮河から、麻也に電話がかかって来た。

「麻也さん。もしかすると、あの女性は、爆発の犯人と何らかの関係があるかもしれませんよ」

 その頃には、テレビで、〔月の石〕は誰かがあちこちで爆発のテロを起こすために持ち込んだとの見込み情報が流され、犯人を捕らえるためや、危険を防ぐために、日本でも、大々的に〔月の石〕に関する情報を募るようになっていた。爆発による被害は甚大だったのだ。

「あの、実は、ついこの間、ハンサムがまた拉致されかけたんです」

「何ですって?! それで、どうなったんですか?」

「無事帰ってきたから大丈夫なんですけど。その事件が起きた時、わたし、ハンサムを探していて、路地裏で〔月の石〕が出るというガチャガチャを見つけたんです」

「えっ!? 今テレビで騒いでいる〔月の石〕を見つけたんですか?」

「いいえ。テレビで言っている物と同じかどうかは分かりませんが、そのガチャガチャの〔月の石〕は出ませんでした。でも、その時に、わたし、蓮河さんが出会ったのと同じじゃないかなと思われる女性に出会ったんです」

「ええっ? そ、それで、どうしました?」

「その女性は蓮河さんがおっしゃっていたのと同じような事をわたしに話しました。それと、〔月の石〕を手に入れたようでした」

「そ、それから?」

「その女性はそのまま去って行きました。誰かを聞いても答えてくれませんでした」

「やはり、危険な集団のひとりかもしれませんね。警察に届けましょう」

「ちょっと待って下さい。まだ、続きがあるんです」

 麻也は、異世界から来た紳士との出会いや、聞いた事、矢城刑事や尾之多博行と話し合った事等を伝えた。

「なんと! 異世界ですか! 本当ならこれは大変な事ですよ。あ、いや、麻也さんを疑っている訳ではありませんよ。僕は、むしろ積極的に情報を届けた方が、犯人達を捕らえやすいし、そんな大きな事態なら、信じてもらえるかどうかに係わらず、やはり届けるべきではないかと思うのですが」

「今、どういう風に情報を公開したら一番良いか、刑事さんが考えてくれています。ですから、届けないでおいていただけませんか?」

「僕は巻き込まれるのは構いませんよ。ガードなしでも、自分の身を守るくらいの自信はあります。でも、麻也さんがそうおっしゃるのなら、届けないでおきます」

「ごめんなさいね。勝手な事お願いして」

「いいえ。でも、麻也さん、本当に大丈夫なんですか?」

「はい。ボディガードも付いているようですし、十分気をつけます。蓮河さんも、何かあったらすぐに矢城刑事さんに連絡してください」

 麻也は矢城の電話番号とメールアドレスを伝えて、会話を終えた。

 大丈夫と言ったものの、危険がすぐそこに来ているような緊張が麻也を包んでいた。

 異世界の人は、叶えてはいけない願い事ではない、とは言ったが、ジュムルの発動の仕方によっては地球の滅亡に繋がるような事も言っていた。ジュムルの発動というのがどういう事なのかは分からないが、あの女性が言っていた言葉が、時折心の底から浮かんできては、麻也を不安にさせた。

 ハンサムは、麻也の不安が乗り移ったかのように、心もとなかった。自分の知らない女性がどういう関係で出てくるのか、願い事を叶える事がどうして何か他の目的と繋がるのか、訳の分からない事だらけで。前のようにCIAとかいう怖い人達に閉じ込められて、麻也と離れ離れになるのだけは嫌だと思った。

 矢城刑事はその夜、CIAとのすったもんだを片付けると、公安の知り合いに会って、〔月の石〕に関する情報を聞いた。

「やっさんが前に関わっていた事だから話すんだが、あれはもともと、例のマイクロカプセルに入っていた防衛システム破壊機器につながるネタでね。日本では、当面の間、表向きは、願い事の叶うオモチャとして放置しながら対策を練っていたんだが、今はちょっと様子が変わってきている。あちこちの組織も動き出しているしね。首を突っ込まない方がいいと思うがね」

「もう突っ込んじまった後の祭りだよ。抜け出すために、近々情報公開するつもりだ」

「なんだって?」

 矢城は、幸坂家で話された異世界の人間の事や、石を手に入れた女性に関する事等を話した。ハンサムが石を持っている事や、博行が石を研究している事は省いた。

「異世界とはな! 信用がおける情報源なんだろうな?」

「ああ。CIAに盗聴されて、強制連行されそうになったからな。奴さん達が信じているという事はそういう事だ。今の所、一般には信じがたい話の領域を出ないからな。公開してもパニックにはならんだろう。だが、万が一の時の為に、そちらには先に知らせておいた方が安全かとも思ってな」

「分かった。十分注意してやってくれよ。連絡してくれて良かった」

「で、その為にも、知っておいた方がいい情報などはあるのかい?」

「爆発事件の原因はテロではないとの見方がある。〔月の石〕に関する情報を募っているのは、テロ対策よりも石に関する情報を集める事が目的らしい。あの爆発事件の発表も別方面がリークしたという見方がある。現在、石は3個が確認されている。我々の手元には無い。あちこちの組織同士の〔月の石〕争奪戦が活発になっている。これで全部だ」

「有り難う。また何かあったら連絡するよ」

「ああ、頼むよ、やっさん」

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ハンサム・ザ・キャット~愛の因数分解~ 〈23.石の波紋 その1〉

 矢城刑事は幸坂家を出て一人になると、公安にいる知り合いに電話をかけた。それから、駅へと向かって歩き出した。すると、駅の方角から、見た事のある顔がやって来る。

「おい。君は森岡聡史君じゃないか?」

「あっ、矢城刑事さん。お久しぶりです。いつぞやはお世話になりました」

「いや、いや、こっちもな。これから麻也ちゃんの家に行くところかい?」

「ええ、そうです。あれっ? もしかして、刑事さん、麻也さんの家から帰る所ですか? また何か事件に巻き込まれたんですか?」

「ああ、ちょっとな。君、まだ麻也ちゃんの事を諦めていないのかい?」

「嫌だなあ、刑事さん。そんな風に言わないで下さいよ。今は友達として付き合っているんですから」

「そうか。しかし、あんまり、あの二人には関わらん方がいいと思うぞ」

「その事件というのは、〔月の石〕と関係あるんですか?」

「テレビを見たのかい?」

「ええ。それで、今、行こうとしている所です」

「二人が係わっている事件に首を突っ込むのは止めなさい。月影の過去は未だに不明だ。もしかすると、彼の失われた記憶の中で、本人の意識や性質とは関係なく、どこかで、何か危険な物につながっているのかもしれん。それで、あちこちの危険な集団が彼の周りに寄ってきている可能性もある。命に係わる事が出てくるかもしれんよ」

「CIAだけではないと言うんですか?」

「うむ。近づくなとまでは言わんが、事件には係わるなよ。君自身のためだ」

「御忠告有り難うございます。でも、僕の道は僕が選びたいんです」

「やれやれ。君も困った人だね。一生懸命になった所で、麻也ちゃんが月影を好きな事は変わらんだろうに」

「そんなんじゃないんですよ、僕は。ただ、友達として、麻也さんの笑顔を見ていたいだけです」

「そうか。分かった。もう何も言わんよ。役に立つかどうかは分からんが、もし、万が一何かあったら、私に連絡しなさい。いいね」

「はい。有り難うございます」

 矢城刑事が帰った後、しばらくして、麻也の家から出た博行は、樹菜に電話をかけた。

「映像、見た?」

「ええ。編集部のほうも情報集めに忙しくなっているみたい」

 編集部というのは樹菜が属している組織の隠語だ。

「発表が早すぎるよ。誰かがリークしたんじゃない?」

「そうね。あんなに大きな爆発をするなんて。もしかして、誰かの願い事なのかしら?」

「たぶん違うね。あそこは例の研究所だから、きっと、扱い方を間違えたんだと思う。Eの蓋を開けてしまったのさ。隕石が落ちたのでもなければ、あんな爆発の仕方をするような物は考えられないもの」

「えっ? わたし、ヒロ君にそんな危険な事をさせていたの?」

「問題ないよ。よほど強引な方法を取らない限り、そうはならないはずだ。少々焦ったのかもしれないな。それより、麻也が出会ったのは〔月〕だったようだよ」

「えっ? 何ですって?! 〔陽〕以外に〔月〕に出会った人がいたなんて。でも、何事も無かったでしょ? どういう事かしら?」

「麻也から聞いた話は、〔陽〕からの話とはかなり趣が違うようだね。〔月〕はこの世界の侵略や崩壊を目的にしている訳ではないかもしれないよ。とにかく、前にも言ったけど、〔陽〕には充分注意をした方がいい。麻也の事は伏せておいてくれる?」

「分かったわ。連絡、ありがとう」

 博行は携帯電話をしまうと、矢城刑事の後を追った。

 聡史と別れた矢城刑事は、再び駅へと向かっていた。駅にたどり着く前に、横道から、外国人らしい三人の男が出てきて、行く手を遮った。

「ちょっと、こちらへ」

「私を刑事と知ってのお誘いかね?」

 三人の男達は、有無を言わず、いきなり矢城刑事の腕を抱え込むようにして、横道に連れ込み、隠れるように止めてあった車に押し込もうとした。

 矢城刑事は危険を感じて銃を取ろうとしたが、力強く腕を押えられて抜く事が出来ないまま、車に押し込まれそうになった。

 すると、その時、後ろから押し込もうとしていた者が、押し殺したような声を出して、倒れこんだ。間を置かず、左腕を押えていた者の力が抜けてうずくまる。右腕を押えていた者が危険を察知して、振り向きざま銃を取り出して、構えようとしたが、喉元に食い込んだ拳が気絶を誘った。

 矢城が振り返ると、博行が矢城の腕を掴んで、その場から逃げようと走り出しかけた。

「ちょっと待て! 刑事の俺が、なんで逃げにゃならんのだ?」

 博行の腕を振り払って、銃を構えて賊の方に近づくと、車の運転役の者が銃をこちらへ向けて叫んだ。

「二人とも動くな!」

「それはこっちのセリフだ。日本の警察を侮るなよ。手を挙げて出て来いっ!」

 銃と銃とが睨み合う膠着状態になった。博行は徐々に体の位置をずらして車の影に移る。相手の銃から死角に入った所で、さっと屈み、倒れていた一人が落とした銃を拾い上げた。拾い上げると運転席側に回って、運転手に銃を突きつけた。

「2対1だ。銃を下ろしたほうがいいぞ」

 博行が運転手に言うと、運転手は銃をおろして出てきた。出てきた所を、博行が首筋を銃で殴って気絶させた。

「おい、こら、なんて事をするんだ」

 博行のする事を見ていた矢城が言う。博行は銃を運転席に放り投げると、無言のまま矢城に近寄って、矢城の服を調べ始めた。

「な、なんだ?」

 上着の襟の裏に引っ付いている盗聴器を見つけると、足で踏んで砕いた。

「盗聴器です。どうやら、さっきの話を聞かれていたらしい。それで、刑事さんを襲ってきたんですよ。取り敢えずこいつらが気がつく前に逃げましょう」

「バカいうな。今、警察に連絡する」

「ちょっと待って下さい」

 倒れていた一人が頭を振って起きだそうとしていた。博行は肘で小突いてもう一度気絶させると、その男のポケットの中から、CIAの身分証を取り出して矢城に見せた。

「分かったでしょう。言い訳が効く奴らなんですよ」

「しかし、このままでは日本の警察の沽券に係わる」

「逆に妨害されたと文句が来ても知りませんよ」

「構わん。また襲われても文句が言えんよりはいい!」

「分かりました。では、僕は逃げる事にしますが、その前に、」

 と、他の二人が動き出したのに気づいて、博行はその二人に当て身を加えて再び気絶させる。

「手慣れたもんだな」

「ちょっとこちらへ。大事な話があるんです」

 博行は矢城を引っ張って、通りかかる人から見えないように車の陰に連れてきた。

「僕が月の石を研究している事は、もうお察しの事と思いますが、今の事で、僕の立場が微妙になってきました」

「やはりそうだったのか。しかし、君はCIAがらみではないんだろう?」

「いえ。正確には少し絡んでいますけど。それが問題なんですが。まさか盗聴されていたとは思わなかったので」

「すまん。盗聴器を仕掛けられていたとはな。私の不覚だった」

「月影の家の周りは見張られていますからね。刑事さんを利用して、情報を手に入れようとしたんですよ。電車の中ででも付けられたんでしょう。僕も不覚でした」

「で、大事な話とは何だね?」

「お願いがあるんです。一つは、これを預かっておいていただけませんか?」

 博行は襟の所から服の中に手を入れて、首にかけていたペンダントを取り出した。ペンダントトップが鍵になっている。それを矢城に手渡すと、

「もし、僕の消息が知れないような事態になったら、それを使ってください。何の鍵かは、その時に麻也に聞いてください。それから、異世界の事ですが、僕らが知っている事を知られてしまった以上、なるべく早いうちに情報公開した方が、皆が安全だと僕は思います。どうか麻也達の事をよろしくお願いします。では、お気をつけて」

「ちょっと待て。お前さん、大丈夫なのかい?」

「自分で選んだ道です。こいつらが気がつく前に、早いとこ警察に連絡してください。くれぐれも、麻也と月影をよろしく」

 そう言うと、博行は矢城と別れて、駅とは反対の方角に去って行った。

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ハンサム・ザ・キャット~愛の因数分解~ 〈22.月の石の力 その2〉

「月影、これはオフレコにしておくから、正直に答えて欲しい。お前、まさか、異世界から来たんじゃないよな?」

 突然、思い詰めたような目でハンサムを見ながら、博行が聞いた。

「違うよ」「違うわ」 ハンサムと麻也が同時に叫ぶように言う。

「そうか。それならいいんだ」

 半ば、自分自身を納得させるような調子で、博行が言うと、ハンサムと麻也は、秘密がばれてしまうような不安に捕まった。

「ふむ。記憶喪失というのは問題だな。あれから何も思い出さないのかい?」

「はい。ごめんなさい」

 視線を下に向けて、うなだれたようになるハンサム。

「謝らんでもいいが・・。思い出せないものは仕方がないからな」

 それが一番の問題点なのかもしれないと思い、矢城はこりこりとこめかみを掻いた。

「異世界の人の事、一体どうしたらいいのでしょう?」

 麻也が困りきった様子で聞く。

「うむ。おそらく、話しても誰にも信じてもらえんだろうな。異世界とか、空間の通路とか。もし、信じてもらえたとしたら、パニックを起こす事にもなりかねない。取り敢えず、石がある事は、まだ秘密にしておいた方がいいだろう。石がある事が分かったら、どんな集団が来んともかぎらんしな」

「そのユールは、誰かに命令されて〔月の石〕をこの世界に持ち込んだと言ったんでしょう。命令した奴がどういう目的で、この世界に石を持ち込んだかが、問題ではありませんか?」

 博行が矢城に問いかける。

「む。そうだな。持ち込まれた石には世界に混乱をもたらす能力がある。混乱をもたらす目的というのは、大体が二つに絞られるな」

 矢城は唸って、口をへの字に結ぶと、腕を組んで考え込んだ。

「秩序の乱れに乗じて征服しようとしているのか、それとも、今の今世界を、或いは文明を、内部から崩壊へと導こうとしているのか。人類の歴史から推測すると、どちらかと思われるのが普通ですよね」 と、博行。

「ほう? お前さんも他の目的かもしれないと思うのかい?」

 言外のニュアンスを読み取るのが得意の矢城が聞く。

「はい。異世界との通路が存在するとなれば、そんな物を持ち込まなくても、征服は簡単に出来るでしょう。壊すのもわけもない事だと思います」

「わたしもそう思うよ」 矢城が頷くように言う。

「幸せをくれる目的が、悪用されているだけじゃないの?」 と、ハンサム。

「ふふふ。お前のように考えられたら、長生き出来そうだな」

「わたし、ユールが、ジュムルがどう発動するのかを観察すると言ったり、イレギュラーがレギュラーを補完するのがこの世界の成り立ちかもしれない、と言った時、こういう事態を私達がどのように解決するかを見ようとしているのかしら、と、思ったんですけど」と、麻也。

「うむ。人類に試練を与えようとしているという事か。しかし、どんな高度な文明を持っている奴らなのか知らんが、神様気取りで人類を弄んでいるのは、気に食わんな。だが、訳の分からん通路の向こうでは、手も足も出んしな」

「同じ科学の法則が支配している世界なら、全くそうという訳でもありませんよ」

「そう言えば、お前さん、物理学者の道を歩んでいるらしいな。もしかしたら、その何とかいう法則の事を知っていたんじゃないかね?」

「どうしてそう思うのですか?」

「勘という奴だよ」

「ふふっ、刑事さんの十八番ですね」

「前の事件の時は不問にしたが、こうなってくると、どうしても聞き出したくなるね。〔月の石〕に関する情報を他にも知っているんだろう? 話す気にはならんか?」

「申し訳ありません。そのうち解決の糸口が見つかるかもしれませんから、その時に、考えさせてください」

「困った奴だな」

「いろいろと事情があるんですよ、僕にも」

「それで、今後の事なんですけど」 と