ハンサム・ザ・キャット~愛の因数分解~ 〈31.アインシュタインの法則 その1〉
年の頃なら三十代。ナイスボディをぴっちりとした黒いセーターとタイトスカートに身を包み、白衣を無造作に引っ掛けたブルネットの女性が、勢いよくドアを開けて入ってきた。きつそうな瞳にイライラが取り付いている。
「ディック! なんなのよ、あの坊やは。ちっとも薬が効かないじゃないの。もう少しで殺してしまう所だったわよ」
「なにっ? それで、彼は大丈夫なのか?」
「ええ。今はもう状態は落ち着いているわ」
「それは良かった。しかし、効かないとは一体、」
「生まれつきあの薬の代謝酵素活性が高いのか、それとも訓練したのか、どちらかね。薬効濃度と危険致死濃度が近くなっているのよ」
「頭の方は大丈夫なのか?」
「すぐに処置したから影響は殆どないと思うけど。ねぇ、ディック」
女性はディックに、つ、と近づいて、ディックの肩に手を置いた。
「私の方法を試してみない? 今までに失敗した事なくてよ」
目に異質な欲望をきらめかせながら、耳元でささやくように言って、ディックの肩先から肘まで指先でつうっとなでた。ディックはぞっとしたように身を引いて言った。
「いや、それには及ばない。大切なコマだからな。壊れては困る」
ディックは嫌悪の色を隠さず、憮然とした表情の女性をその場に置いたまま部屋を出た。
尾之多博行がベッドの上で目を覚ますと、ディックが心配顔で覗き込むように見ていた。
博行の体や手足はベルトでベッドに固定されていて、身動きが出来ないようになっていた。
「気分はどうだね?」
「良くありません。頭が少し痛い」
「悪かったね。君がどこかの秘密組織の一員かどうか知る必要があったのでね」
「頭痛と引き換えに、身の潔白が証明されたって所ですか」
「いや。どうやら君にはあの薬は効かなかったようだ」
「それで、これからどうするつもりなんですか?」
「唇から血が出ているね。あいつに噛まれたのかな? あいつに任せて正体を吐かせることも出来るんだが、」
と、博行の様子を窺う。博行はふふっと鼻の先で笑って言う。
「正体なんてありませんよ。僕は僕でしかない。折角協力しようっていう貴重な科学者をそういう風に扱うのは、CIAのやり方とは思えませんね」
「君は月の石の事を知っていたのに知らないふりをしていたな」
「僕も科学者のはしくれですからね。月の石が、扱い方によっては非常に危険な物だって事を知っている以上、下手に話して協力するわけにはいきません」
「科学者の良心ってやつかね? だが、協力する気になった。何故だ?」
「これ以上犠牲者を出さないためです」
「では研究のデータをすべて提供してくれるという事でいいのだな?」
「家捜しはまだ済んでいないんですか?」
「家捜しから得たデータでは、月の石の分析は済んでいるようだったな。我々の精鋭の科学者が総出でかかって、多くの犠牲者まで出して、分かっていないというのに」
「それ、褒めてもらっているのかな?」
「しかし、そこから先のデータが途中までしか見つからなかった」
「そうでしょうね。僕の頭の中にしかない部分もありますから」
「完成しているのか?」
「理論的には」
「君の協力を得る事が出来て嬉しいよ、博行。VIPとまではいかないが、協力をしてもらっている間は客員の扱いをさせてもらうよ」
そう言って、博行を固定しているベルトを外した。
「必要な物があったら何でも言ってくれたまえ。但し、外部への連絡は必ず我々を通してもらう」
ディックは部屋を出ると、幹部に報告に行った。
CIAの秘密の研究所に軟禁状態になった博行は、月の石を作る事になった。
「君と僕、どこかで会った事がある?」
研究所に顔を出した、エキゾチックな雰囲気を持つ女性に、博行は聞いた。
「一度出会った美人の事は全部覚えているつもりだけど、君のような美人にどこで出会ったか思い出せないなんて、僕も落ちたもんだな」
「ふふっ。会った事あるわよ。私の方は覚えているわ。でも、その時はこんな格好じゃなかったから、きっとイメージが分からないのよ」
「ふぅん。白衣が似合うね。何を着ていても似合うと思うけど、その時はどんな格好だったのかな。名前は?」
「サラ。サラ・ミュウよ。博行君」
「サラ。僕の名前を覚えてくれているなんて、光栄だ」
そう言って、握手しようと手を差し出した。
「ふふふ。でも、お付き合いしようなんて考えないでね」
サラが握手し返すと、博行はその手をそのまま引っ張って、サラを側に引き寄せた。
「つれない人だね」
博行はサラの耳元に口を近づけると、小声で囁くように聞いた。
「君が扉を開ける願い事をするって聞いたけど、本当?」
「そうよ」
サラも囁くように答える。
「何時?」
「一週間後の満月の夜に」
「陽と月とはどういう関係?」
「さあ。共通するのは扉の向こう側の人達ってとこかしら」
「君は向こう側の人間じゃないの?」
「ふふっ。そう見える?」
そう言うと、サラは博行の側から身を離して、
「月の石、出来るといいわね。がんばってね」
エキゾチックな謎めいた微笑を浮かべながら、身を翻して軽やかな足取りで研究室を出て行った。




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